喜びは続かない?|未来あるところに喜びあり

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「これどうぞ、子どもさんたちに。確か4人だったよね」と、訪ねて来てくれた友人が差し出してくれたお土産。中身は「駅前に美味しそうなケーキ屋さんがあったので」と様々なケーキが。私は「気を遣わせて悪いね、ありがとう」と笑顔でお礼を言いつつも、内心ではこれから始まるケーキ争奪戦の悲惨な状況を想像して、ちょっとため息。兄妹がいるご家庭の忖度無しの日常でもある。忖度無しといえば、こんなこともあった。長女が多発性硬化症と診断され、二か月半ほど四国で入院加療して帰宅した時、様々な食事制限があり、私も連れ合いも出来るだけストレスにならないようにと用心しながら接していた。ある日、突然長男が「お姉ちゃんだけズルい」と怒り出した。それに対して長女も反論。そんな二人を見ながら、「そうだよなぁ、普通に接してやることが一番ストレスが無いんだ」と気付かされ、張り詰めていた気持ちが緩んでいったことを思い出す。喜びもあれば苦労もあるのが子育てだが、「子どもの未来(将来)のことを思うからこそ、苦労も甘んじて受け入れられる」と子育てを終えて実感している。だがもし、事件、事故、災害等々、未来を奪い取る出来事がある日突然身に降りかかり、子どもとの未来、愛する人との未来、思い描いていた未来が奪い取られてしまったとしたらどうだろう。長女が多発性硬化症と診断され、長女の未来がガラガラと崩れ落ちていくように感じた時の絶望感を思い起こすと、私にはそれに耐えられるだけの力がないことを、あの時知った。喜びも苦労も、無意識の内に自分で勝手に作った未来に繋げ受け止めているのが私だったからだ。

私たちの地上の未来もいつかは無くなってしまうが、敢えて考えないようにして過ごしているのが現実である。だから予想しない未来に遭遇した時にうろたえてしまう。イエスが十字架と復活を打ち明けられた時に「そんなことがあってはなりません」(マタイ16:22)と諫めたペトロ、ついに捕らえられてしまったイエスを「見捨てて逃げてしまった」(マタイ26:56)弟子たち、思い描いていた未来が手元から無くなってしまった時の彼らの反応こそが、私たちの姿に他ならない。十字架の出来事の後、弟子たちが宣教を再開したのは、復活のイエスに出会ったからであろうが、それは「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(マタイ24:35等)と語られたイエスの言葉を、そして神が与えてくださる滅びない未来を、彼ら自身が確かな事だと受け入れられたからに他ならない。

思い描いた長女の未来を失い絶望的な思いが覆っていた時、教会の皆さん、そして多くの友人たちが手を差し伸べてくれた。だから、神が用意してくださる未来に委ねようと受け入れられた時に、私たちの家族は再出発できたことを今も感謝している。

 

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