ひと言よりも   

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「心の病を負った人は、病院と自宅しか行く所がない人が多い。良ければ彼らにもう一つの居場所として教会を提供してもらえないだろうか」と、知り合った精神科医から相談を受けた。牧師になり最初に赴任した地で1年程経った頃であった。教会を通して何かお手伝い出来るならと私は快く引き受けた。心の病気について深く学んだことも考えたこともなかったのに「引き受けた」のは、今にして思えば実に軽率な判断だった。間もなく病院の紹介を受けた患者さんが、ぽつぽつ足を運んで来られるようになった。病院と自宅以外で気軽に立ち寄れる場所になればと、私なりに精一杯の対応を行った。お茶を出し、話し相手になり、時には聖書の事を話したり、「私なり」に良かれと思って対応したのだったが…。数か月後には誰も来なくなっていた。「もう一つの居場所」になれなかったのである。

あの時は、「自由に使ってください、何かあったら声を掛けてください」と案内してあげるだけで良かったのだ。特別な言葉でもなく、懇切丁寧な応対でもなく、求められた「もう一つの居場所」を提供してあげることに専念すれば良かったのであり、時には余計なひと言よりも、「ただそこに居て良いよという場所があること」が何よりも大切なことがあるということだったのだろう。

「『神や宗教の教えや存在よりも、教会という場の方がはるかに意味深い救いを、人に与える場合がある。』(志賀理江子)1冊の本より書店という空間を大事に思うのも同じ。『何も問われず、ただここにいてもいいのだと』素朴に思わせてくれる場所が今の私たちには必要だと、震災の経験を掘り下げてきた写真家は言う。」(朝日新聞「折々のことば」7月17日)市川教会の会堂内部は吹き抜けで高さが約6m程あり、ただそこに座っているだけで、大きな何かに包まれるような温かさがある。私の余計なひと言よりも、会堂自体から「ただここにいてもいい」と感じてもらえたらと思うことが多い。

子どもたちを連れて来た人々を弟子たちは叱ったが、イエスは「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と言って祝福してくださった。(マタイ19:13~15)「私のそばには誰でも居て良いのだよ」とでもおっしゃったかのような振る舞いである。教会は「キリストの体」(エフェソ1:23)なのだから、(余計な)ひと言よりも、「ここにいてもいい」という思いを伝えられたら、良いなぁ。

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