神の数字「40」|何事にも時がある

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「モーセ様、神が我々に与えようとしておられるカナンの土地は、実に豊かな土地です」と、偵察から帰ってきた12人は興奮して報告し、担いできた一房のぶどうのついた枝を差し出した。しかし続けて「ただ、残念なことに城壁が作られ、強く大きな民が住んでおります」と、今度は脅えた表情を浮かべながらモーセに報告した。偵察に出掛けた者の内、ヨシュアとカレブは「我々が主の御心に適うなら、必ず与えられるはずだ」と主張したが、他の10人の者たちが流した悪い情報を受け入れてしまった民には受け入れられなかった。「与える」という神の約束を聞き入れなかったイスラエルの民は、偵察に行った者たちが要した40日という日数に応じて、40年間荒野での生活を余儀なくされることになった。(民数記13~14章より)実際に40年であったかどうかは定かではないが、40はひとつの世代を意味しており、出エジプトを担った世代は神への不服従によって約束の地に入ることを許されなかったのである。

「40」という数字は、世代や生涯を意味すると同時に、約束の地カナンで生きるための準備の「40」年であり、また試練の先取りという意味もあろうか。地に悪が満ち溢れた際に、神は「40日40夜」雨を降り注がれノア一家によって新たな歩みを人類にさせようとされた(創世記7:4)し、十戒を与えるためにモーセは「40日40夜」シナイ山に留まる(出エジ25:9)ことになった。預言者エリヤも神の山ホレブを目指して「40日40夜」歩き続けた(列王上19:8)し、ニネベの町の贖罪のために神が用意された期間は「40日」(ヨナ3:4)であった。士師の時代、平穏であった時は「40年」(士師記3:11、5:31、8:28)と表され、ダビデ王(サム下5:4)もソロモン王(列王上11:42)も40年間治世したと記される。忘れてならないのは、イエスが荒野で断食されたのは「40日40夜」(マタイ4:2)であり、復活されたイエスが弟子たちに「神の国」について語られたのも「40日」(使徒1:3)だったということだ。

先日、名古屋での仕事の折、日曜日にF教会で説教奉仕をさせていただいた。神学生3年次にインターンをさせて頂いて以来、訪問する機会もないままであったが、あの時から41年(牧師になってからは40年)。「節目の時だから」と神様がご褒美として訪問の機会をくださったのかもしれない。礼拝後、すっかり様変わりした街並みを歩きながら、立ち止まってこれまでを振り返りつつ次の歩みに向かう備えをさせていただいた気がして感謝であった。

「何事にも時があり」(コヘレト3:1)と神は言われる。神は「40」という数を用いて、備えや試練を与えると同時に、私たちの生涯もまた神の御手の内にあると告げられている。

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