
聖霊の色は赤?|ペンテコステ〜聖霊の働きに思いを馳せて
今日は聖霊降臨日、数少ない「聖壇布赤」の主日である。市川教会で用いている赤い聖壇布は、11年前に会堂修復工事完了を記念して購入した聖壇布である。
今日は聖霊降臨日、数少ない「聖壇布赤」の主日である。市川教会で用いている赤い聖壇布は、11年前に会堂修復工事完了を記念して購入した聖壇布である。
入退院を繰り返していると、いろいろなものが変わって行きます。 それは自分自身の身体や病気の状態が変化することもありますが、 病院が新しい建物になったり、スタッフが変わったり、治療方針が変わって行きます。 その度に、私たち一人一人は戸惑ったり、苦しんだり、不安になるのではないでしょうか。 今回の入...
PDFに変換するプリントする(120) 「こどもは学校が仕事。おとなは仕事が学校。」(5月16日朝日新聞「折々のことば」)小学3年生が呟(つぶや)いた...
弟子たちはイエス様に「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた時、すぐに「何言ってんですか、私たちはちゃんと祈りましたよイエス様!」と言いたかったかもしれませんが、聖書にはそのような弟子たちの言葉は載っていません。
先週、5年振りに開催された全国総会の一部を記したが、その総会の最後「常議員就任式」が行われた。
「信仰」ってなんでしょうか?文字通りに言うと「信じて思い仰ぐこと。」わかったようなわからないような。そうです、他の人が「標準的にはね」と言えない、あなた自身の心のあり方を言います。
いよいよ今週から「新型コロナ5類対応、所謂インフルエンザと同類」となる。その結果、感染者への対応が変わり(療養期間・行動制限などは推奨、医療費の有償化)、緊急事態宣言や飲食店に対する営業時間短縮などの要請も無くなる。
「やっと目を向けてもらえたなぁ」と思えたのが、「子どもの声」に関するニュースを聞いたからである。「『子どもの声は“騒音”ではない』法律で定めることも視野に政府検討」(4月28日TBSニュース)という報道を聞きながら、その一方で少し物悲しさも感じてはいた。
イエス様は平和なんだ。敵意って壁なんだ。と考える時、私たちは実は目に見える形あるものと、目には見えない形ないもの、両方のものの中に生きているのだと気付きます。
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。(フィリピの信徒への手紙4章6節)
いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。(フィリピの信徒への手紙3章16節)
今や、恵みの時、今こそ、救いの日。コリントの信徒への手紙二、6章2節
この方においては「然り」だけが実現したのです。(コリントの信徒への手紙二、 1章19節)
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、 万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマの信徒への手紙8章28節)
しかし、必要なことはただ一つだけである。(ルカによる福音書10章42節)
イエスはその人に、「鋤(すき)手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。(ルカによる福音書9章62節)
わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。(マルコによる福音書9章40節)
もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。(マタイによる福音書18章8節)
入退院を繰り返していると、いろいろなものが変わって行きます。 それは自分自身の身体や病気の状態が変化することもありますが、 病院が新しい建物になったり、スタッフが変わったり、治療方針が変わって行きます。 その度に、私たち一人一人は戸惑ったり、苦しんだり、不安になるのではないでしょうか。 今回の入...
弟子たちはイエス様に「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた時、すぐに「何言ってんですか、私たちはちゃんと祈りましたよイエス様!」と言いたかったかもしれませんが、聖書にはそのような弟子たちの言葉は載っていません。
「信仰」ってなんでしょうか?文字通りに言うと「信じて思い仰ぐこと。」わかったようなわからないような。そうです、他の人が「標準的にはね」と言えない、あなた自身の心のあり方を言います。
イエス様は平和なんだ。敵意って壁なんだ。と考える時、私たちは実は目に見える形あるものと、目には見えない形ないもの、両方のものの中に生きているのだと気付きます。
え、ユダがわざわざ合図をしなければイエス様ってわからなかったの。」この聖書の箇所を読む度に私は思いました。初めてみことばにであわれる方も「イエス様って、そんなにいつもご自分の身を隠されておられたのかしら」「イエス様の正体を暴くために、ユダは合図を決めたのかしら」と思う方も少なくないと思います。...
イエス様はエルサレムという当時の都に入られる時にろばを必要とされます。イエス様は足が痛くて歩けなかったのでしょうか?理由はイエス様にしかわかりません。ただその時にイエス様は子ろばを必要とされました。しかも子ろばと一緒にいたろばも共に引き連れて来られることで、子ろばには必要な安心も与えられました。
死刑の判断がなさようとする時、しかもそれが自分に身に覚えのない濡れ衣で自分は陥れられていることが明らかな時、「そんなこと身に覚えはありません」と裁判を司る人に訴えるか、「助けてくれ!」と命乞いをする人が多いでしょう。
先ほど、お祈りに覚えましたように聖書を読む私たち一人一人は聖霊の働きによって聖書からみことばを聴いています。私も同じです。だからいくら頭の中で覚えて何度も何度も読んでいる言葉でも、聖書を読む度に聖書からみことばが新しく語られます。
「また明日」という言葉を私たちは使います。近所の友達と遊んで別れる時や学校で帰宅する友達と別れる時、会社の仲間と別れる時。「また次の日会おうね」という意味で私たちは「また明日」と言います。また、幼い頃、私は教会で牧師に「永遠のあしたも私たちには与えられているんだよ」と言われ、先生も随分難しいこと...
今日は聖霊降臨日、数少ない「聖壇布赤」の主日である。市川教会で用いている赤い聖壇布は、11年前に会堂修復工事完了を記念して購入した聖壇布である。
PDFに変換するプリントする(120) 「こどもは学校が仕事。おとなは仕事が学校。」(5月16日朝日新聞「折々のことば」)小学3年生が呟(つぶや)いた...
先週、5年振りに開催された全国総会の一部を記したが、その総会の最後「常議員就任式」が行われた。
いよいよ今週から「新型コロナ5類対応、所謂インフルエンザと同類」となる。その結果、感染者への対応が変わり(療養期間・行動制限などは推奨、医療費の有償化)、緊急事態宣言や飲食店に対する営業時間短縮などの要請も無くなる。
「やっと目を向けてもらえたなぁ」と思えたのが、「子どもの声」に関するニュースを聞いたからである。「『子どもの声は“騒音”ではない』法律で定めることも視野に政府検討」(4月28日TBSニュース)という報道を聞きながら、その一方で少し物悲しさも感じてはいた。
「これが終われば、またいつもの日常は取り戻せるし、ポリープが悪性化する心配も軽減する」と自らに言い聞かせながら病院に向かった。
4年振りにフルバージョンの祝会を行えた今年のイースター。「祝会のフルバージョン?」と言われそうだが、要するに「あれはダメ、これは難しい」などとは言わず、「行いたいことに制限を付けない」と云う程度のものでしかない。そんな中で準備を始めたのだが、結果は4年前とほぼ同じプログラムに落ち着いた。
イースターが「春分の日の後の満月の次にくる日曜日」と制定されたのは、325年のニケヤ公会議であった。
「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)十字架上でイエスは七つの言葉を語ったと言われているが、その最初が、今、記した言葉である。
「礼拝開始時刻に間に合わなくても、あるいはもっと遅くなって説教の時間に間に合わなくても、最後の祝福に間に合うようだったら礼拝にいらっしゃい」と私は常々言っている。最後だけ行くのは照れ臭いと思うかもしれないが、最後の祝福こそが最も大きな恵みだからだ。