誰が社会を支えているか

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一日で100cmの積雪を、帯広教会に居た時に経験したことがある。40~50cmの積雪を見て、すぐに雪かきを始めたが、雪は降り続き、数メートル程雪かきして振り向くと、再び膝辺りまでの積雪。その繰り返しだった豪雪の日であった。あれこそまさに「大雪」だった。でもそこは雪国、道路は一部で少し渋滞があったものの、公共交通機関は普通に動き、いつものような冬の中の生活が淡々と続いていたことを記憶している。

今週の木曜日10cm程の積雪、翌日の新聞には「大雪、交通に乱れ」とあった。スリップや渋滞が多発し、雪に弱い首都圏の姿がまたもや露呈した。4年前の積雪でも同じような状況があったことを思い出す。「もしかしたら夏タイヤのままじゃないのか?雪道に慣れてないのだから、自重すれば良いのに。でも10cmで大雪はないよなぁ」等々がこれまでの私の感想。ほぼ在宅ワーカーの私、雪国の経験もあるものだから、ついそんな感想を抱いてしまっていたのだろう。渋滞中の車のほとんどは、不用意とはいえ「出かけなければならなかった人」であろう。そういう視点を何故もてなかったのだろうかと今は思う。雪国生活を経験したことがあるからだと言い訳したくなるが、そうではない。「気付かなければならなかったことに素通りしてきた」と最近は思うのである。

昨年夏、第5波の中で東京都台東区では不燃ゴミの収集が止まった、19人が陽性、26人が自宅待機となったからである。2週間の収集停止後、苦情を覚悟した職員たちだったが、待っていたのは「いつもありがとう」「今日のゴミは重たくてごめんなさい」と貼られた感謝の手紙であった。「誰が社会を支えているのか、コロナ禍で誰の目にも明らかになった。」(以上1月4日朝日新聞「未来のデザイン」より)エッセンシャルワーカーという言葉を意識するようになったのも、コロナ禍があったからであった。私(たち)の生活を支えてくれている人々なのに、感謝するどころか目を注ぐこともしてこなかったのではないか、社会がもちろん私が!危険な雪道「夏タイヤであろうと出掛けなければならない」、渋滞の中のほとんどの方々がそうなのだろうと思うと、パソコンの前で仕事をすることが出来ている私には、今は感謝と労りの思いしか浮かんでこない。

主イエスの眼差しは、当時の社会を支えている人々、即ち多くのエッセンシャルワーカー(当時はそのような概念はなかっただろうけど)にこそ向けられていた。社会を支えているにもかかわらず報われない状況であったからだ。それは現代も変わらない、新聞の記事はそのことも報じていた。彼らが報われる社会になるために、私に何が出来るかを考えていきたい、「社会を本当に支えている人々」に感謝しつつ。

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