わたしはいつもここにいます
祈り)天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
そして今日も神様あなたに心を向ける時を与えて下さりありがとうございます。
「いつもあなたを思っています」と私たちは言い切ることはできません。時には忘れてしまうこともいっぱいあります。
「どうしてこんなことが…」と思う時、いつの間にか辛さや恐怖で心がいっぱいになり「神様なんて後回し」なんて思うこともあります。
神様、あなたに恨みつらみをぶちまけてしまう時もあります。
しかし神様はそのような私にもそっと「いつもあなたを思っています」と語りかけ、私たちといつも共にいてくださいます。ありがとうございます。
これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと、そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン
【参照聖書 使徒言行録17章22〜31節】
世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。(24節)
ご一緒にお読みしました聖書の箇所の中で「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」(使徒17:24)とパウロは語りかけます。
「聖書に書かれている言葉はわかりにくい。」「今の時代、日本にいる自分がどのように解釈すればいいのだろうか。」「やっぱりキリスト教は外国の宗教だな。」といろいろな声が聞こえてきそうです。だから今、ここで生かされているあなたが必要なのです。言語も時代も違う聖書のみことばを、自分を通して今、与えられる神様からの愛をあなたがあなたの言葉で語る。それも神様にとってあなたが必要でかけがえのないことの一つの理由なのです。
どうしてあの時のことが、まるで昨日のことのように思い出されるのかな?と不思議に思うことがあります。それは、「神様との出会いには時間や空間は妨げにならない」と私たちに教えてくれているようです。
今、与えられた箇所をお読みし、自分が小学校低学年の頃に教会学校の先生がしてくれた話を思い出しました。その話はこのような話でした。「ある所に一人暮らしのおばあさんがいて、家にある像を大切に大切に磨いては、毎日拝んで神様のように思ってました。ある日その家が火事になって、おばあさんはまず、大切にしていた像を火が燃え盛る家の中から運び出そうとします。しかし、その像は重くて重くて運び出せず、命からがら何も持つひまもなく像を置いて逃げるしかありませんでした。それから何日かは、その像に申し訳なくて申し訳なくて。
そんなある日ふと『私は像を守ろうとしていた時には命が危険にさらされていたけど、神様が私を守って下さったのではないのかしら』と思ったときに、人間が作った像に神様はおられないことを実感された」という話でした。
「万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」(使徒17:24)神様を崇めるための像や建物を造ってはいけないのではありません。ただ、それは神様ではありません。神様に心を向ける場所や物は大切です。
それなら神様はどこにおられるのでしょうか。神様はいつもあなたと共におられます。あなたのまわりのすべてが語りかけてきます。
「あなたはかけがえのない大切な人、わたしはあなたといつも一緒だよ」