名を付ける|あなたの名前には愛が溢れている

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「名を付ける」これがアダムの最初の仕事であった。ふさわしい助け手を見つける必要があったからである。アダムは神が連れてこられたあらゆる生き物に名前を付けたが、彼にふさわしい助け手を見出すことはできなかった。(創世記2章)父親になることが分かった時に、父親としての私の最初の仕事は「名前を何にしようか?」と考えることであった、アダムがそうであったように。家族として受け入れ、養い育て、将来に希望を託せるようなふさわしい名前をと考え、そして名を付けた。

今年も、父親・母親のそのような願いを身に受けた保育園年長児の名を、卒園記念に贈呈する聖書の表紙裏に貼るシールにパソコンで作製した。以前は卒園式に贈呈していたが、数年前からその期日を半年早めたのでこの時期の作業となった。半年早めたのは毎週の礼拝の話がどの個所だったかを、子どもたち自身が聖書を開いて確認してもらうためだ。数年前まで、この作業を書道家のSさんが一手に引き受けてくださっていた、「最近の子どもの名前は難しくて・・・」とおっしゃりつつも。ずっと使って欲しい聖書、開いた時に自分の名前が違っていたら悲しいだろうと、関わっている二園50名前後の卒園児の名前と聖句を、細心の注意を払って書き続けてくださっていたが、数年前「もう体力がもちません」と言われて、仕方なくパソコン文字で勘弁してもらうことにして引き継いだのであった。

神を愛すること、隣人を愛すること、律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいているとイエスは言われた。(マタイ22:40等)隣人に対しては「自分のように」とも言われている。即ち自分を愛するように隣人を愛するということに他ならないのだが、私たちは本当に自分を愛しているだろうか。あるいはまた逆に「自己愛性パーソナリティ障害(自分が特別だと思ってしまう認知の偏り)」と言われる状況に陥ってはいないだろうか。イエスが勧められたのは、「あなたは神に愛されている、だから自分を愛しなさい」という意味であり、誰しもが抱いて欲しい「自己愛」なのだ。神がくださった愛は、両親が愛を込めて付けてくれた「名前」に現れている。キーボードを叩きながら、間違わないように、名前漏れがないようにと私も細心の注意を払いながら作製したシール。子どもたちはどんな気持ちで聖書の中の自分の名前を見詰めるのだろう!

アダムは神が与えてくださった相応しい相手(女)に、「エバ(命)」と名を付けた。名を付けながら彼も思っただろうか、「この人(女)も、そして私も神に愛されている、だから大切にしよう」と。

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