「たら・れば」の話|神様が望まれる希望の想像力

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今年のノーベル生理学・医学賞はカタリン・カリコ氏とドリュー・ワイスマン氏が受賞した。受賞理由は「タンパク質を作るための設計図にあたる情報を含むメッセンジャーmRNAを医薬品として使えるようにし、それによって新型コロナウィルスワクチンの早期の開発に寄与した」(10月3日NHK NEWS WEBより)ということである。そのニュースを聞きながら、新型コロナのパンデミックが始まって数か月後、「対応するワクチンが開発されるには2~3年はかかるのではないか」という専門家の意見を聞いて、絶望的な思いになったことを思い出した。だが、その年末にはワクチンの接種が米国で始まり、私自身もコロナ禍が始まって僅か1年で接種できた。予想外の進展はコロナ禍克服の道筋を見せてくれ、希望の光が差し込むようであったことも思い出した。お二人の受賞のニュースを見ながら、「もしお二人の研究がなかったら、いったい世界はどうなっていただろう」と、改めて胸を撫でおろした。

過ぎ去った事について、あるいは未来の事について、「たら・れば」を働かせるわたしたちがいる。過去に用いると後悔に繋がることが多い、「ああだったら」とか「こうしていれば」等と。だが将来の事に向かうと、「ああなれば」とか「こうすれば」等と明るい希望に力が湧いてくる気がする。「神はご自分にかたどって人を創造された(創世記1:27)と云われている理由のひとつは、「たら・れば」即ち想像する力を生き物の中で唯一与えられた存在だからこそ「かたどった」と言われているのではなかろうか。だから「たら・れば」を明日に、未来の事に用いることを神は望んでおられるのではないか。

追いはぎに襲われ道に倒れた人がいた。その道を下って来た祭司は、その人を見て道の向こう側を通って行った。次にやって来たレビ人も同じであった。更にイスラエルの民が決して交わることのないサマリヤ人が来たが、彼は憐れに思い介抱した。(ルカ10:25以下)三人の行動の違いは何か。先の二人は「この人を助けたら、自分と家族はどうなるだろう」と考え、サマリヤ人は「この人を助けなかったら、この人と家族はどうなるだろう」と考えたのではないか。折角与えられた「たら・れば」の力を、自分のために用いるのか、それとも隣人のために用いるのかと、神は問われているのである。

50年前にmRNAの末端につく特殊な構造「キャップ」を発見されたのが故古市泰宏氏(新潟薬科大学客員教授)で、その思いを引き継いで研究を続け、ついには細胞に取り込ませるのに成功したのがノーベル賞のお二人であった。「たら・れば」を諦めなかった人々によって、私たちは「Withコロナ」の世界でも笑顔を取り戻せている。

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