二日目の弟子たち・婦人たち|イースターの喜びを味わうために

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「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9:22他)弟子たちに告げられたこの預言は実現した。金曜日の午前9時に十字架に付けられ、息を引き取られたのが午後3時。ヨセフという議員が遺体を引き取り墓に納めた。一日目の出来事であった。そして三日目に預言通りに復活され、まずマグダラのマリアに会ってくださり、夕方には戸に鍵を掛けて部屋に集まっていた弟子たちに現れてくださった。弟子たちが戸に鍵をかけていたのは、ユダヤ人を恐れていたからだ。(ヨハネ20:19)では、二日目の弟子たちはどんな気持ちで過ごしていたのだろうか。

「三日目(翌日)には復活なさるのだからと静かに祈りつつ待っていた」とは到底考えられない。それどころかイエスの預言の言葉など忘れ、ただただ自分たちも捕らえられてしまうのではないかと恐れ、人目に触れないように身を潜めていたのではないか。大祭司の家の中庭で、「お前も仲間だった」と言われ「知らない」と慌てて否定したペトロは、特に脅(おび)えて過ごしていたかもしれない。二日目は幸い安息日であった。労働が禁じられ、火を使うことすら禁じられていた。彼らが身を潜めるには格好の日であった。その一方、イエスが墓に納められる有様を見届けていた(ルカ23:55)婦人たちは、最後の塗油をして上げることができないもどかしさの中で過ごしていたことであろう。だからこそ彼女たちは、三日目(安息日が終わる土曜日の夕暮れ)に、夜が明けるのを(もしかしたら一睡もせずに)待ち、明るくなり始めると直ぐに墓に向かったことだろう。ただし、生きておられるイエスに会うためではなく、死んでしまったイエスに最後のお別れをするために。

「恐れ、不安、もどかしさ」、十字架に付けられる前には誇りがあり、希望に満ちていた彼らは、全く逆の境遇の中で二日目を過ごしていたのだ。だからこそ「主が生きておられる」という事実に大きな喜びを覚え、その後は大胆に福音宣教に進んでいったのだろう。私たちは「十字架に付けられた主イエスが、三日目に甦(よみがえ)られた」ということを知っている余り、もしかしたら「イースターの喜び」を小さくしてしまっているかもしれない。それは、「主が十字架に付けられて二日目」を遠くに置いてしまい、あるいは「三日目」の準備に心を忙(せわ)しなくさせているからかもしれない。

とはいえ、春の訪れを告げるイースターの準備は、クリスマスの準備とは異なった「ワクワク」があるのも確かだ。だからつい忙しなく準備してしまう。反省だ!

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