景色|信仰継承の景色
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「坪池誠先生が見ていた景色は、こんな感じだったのでは。」先日行われた按手式を会衆席にいてそう思った。42年前、私は今年と同じく東京教会(旧会堂)で按手を受けた。私が最終学年でお世話になった東京教会主任牧師の坪池先生は、定年退職まで1年を残すのみであった。その先生が会衆席で見つめてくださる中で、私は按手を受けたのだ。息子二人も同じ場所で按手を受け、私も同じように会衆席に座っていたが、あの時はむしろ「親」として、喜びや心配の混じった感情の中で座っているだけだった。だが今年、定年退職まで残り一ヶ月余りという中で按手式が行われる会堂に座っていると、「私はもう現任教師を辞する。しかし教会はこれからも宣教を続けて行く、主のご命令だから。その宣教を託せる新任教師、そして神学生たちがいる。あなたたちに次の教会を託すからね。」と、そんな気持ちが湧いてくる。そしてふいに坪池先生の顔が浮かんできて、きっと先生も同じような思いで私の按手を見ていてくださったのではないかと強く思った。私が今年見ていた按手式の風景は、42年前に坪池先生が見ておられた風景ときっと同じだと思えて仕方なかった。
エジプトを脱出したイスラエルの民を率いたのはモーセであった。40年間(一世代)荒野の生活を強いられた後、約束の地カナンに入る時を迎えたが、モーセの世代が神の御心に逆らったために彼は入ることを許されなかった。モーセはピスガ山頂から約束の地を見て死んだ(申命記34章)。聖書にはそれだけしか記されていないが、荒野の40年を経た民が約束の地に向かっていく姿を見詰めながら、「おまえたちに神の思いをしっかり託したぞ」と安堵してその地で眠りについたのではなかろうか。預言者エリヤはその務めをエリシャに託した。エリヤは火の馬に引かれた火の戦車で天に昇っていったが、火の戦車の中から、働きを託したエリシャを見つめていたことだろう、「お前に託したから安心して天に上る」とでも呟きながら(列王下2章)。モーセやエリヤが見ていただろう風景を、キリストもまたご覧になっておられる。復活の後、再び天に上りながら、見上げている弟子たちの姿を見詰めつつ、きっと呟かれたに違いない、「お前たちに託したぞ、大丈夫だよ、私がいつも見守っているから」と(使徒言行録1章)。
モーセが、エリヤが、そしてキリストが見ておられた風景を2000年を経て坪池先生が見て、そして今私も見させてもらったのだ。さぁ、彼らが充分に働くことが出来るように、もう少しお手伝いしよう。そして若い彼らも時を経て、同じ風景を見ることが出来るように祈っていきたい。