脇役|脇役の喜び

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松戸市のK保育園の今年度最初の礼拝に出掛けた。始まるのを待っていたのは3才児20名。「牧師先生が来てくれましたよ」と保育士が入室するなり声がけすると、20人の子どもたちが一斉に振り返り私の顔をジ~~ッと見詰めてくる。席に着き司会の保育士が礼拝を始めても、20人の視線は私に注がれたまま。初めて礼拝に出席するだから、「牧師先生という見知らぬ大人が来て、これから何が始まるのだろうか」と興味津々なのだ。讃美歌もお祈りも、声も揃ってとても上手、きっとこの日のために一生懸命練習してきたのだろう。そんな子どもたちの様子を目に入れながら、私も「神様の救いの出来事・福音」を、3才の彼らに届くようにと祈りつつお話をし、保育園を後にした。

市川に赴任して5,6年経った頃、ある会合で年配の園長先生と話す機会があった。クリスチャンだと自己紹介された後、「保育の現場で一番大事にしていることは、保育士は子どもの『最初の目撃者』にならないことです」と、ご自身の長い経験から得たことを笑顔で話してくださった。「最初の目撃者ってどういうことですか」と尋ねると、「保育士は子どもと接する時間が長いので、子どもたちの初めての時に立ち会うことが多いんです。初めて立った、歩いたとか、スプーンを自分で使えた等々。それを目撃していても、『立ちました』というのでなく、『立ちそうです』と保護者に伝えるんです。最初に出来たことは、やはりお母さんが最初の目撃者になるのが一番大事だから」と、「脇役」に徹することこそが保育士の務めと教えてくださった。子どもを預ける家族の幸せは、保育士という脇役あっての事と思うが、「脇役」にしか得ることのできない喜びも、きっとあるのだろうとあの老園長先生の笑顔は教えてくれていた。

パウロとバルナバがリストラで足の不自由な人を癒(いや)してあげた時、群衆は彼らを「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお降りになった」と騒ぎだした。パウロは人々に自分たちは人間にすぎないこと、福音を告げ知らせにきたのだと説明し、群衆が自分たちを拝することを止めさせた。(使徒言行録14章)福音は使徒たちという「脇役」を必要としたし、彼らもまた「脇役に徹すること」によってキリスト者としての喜びを与えられていたことであろう。同時に全てのキリスト者も「脇役」として召されていることを受け取る時に、神が与えてくださる喜びに包まれることであろう。

あの3才児たちが私を見て「神様」と言うことがないように、彼らに伝わる言葉で、一年間お話出来るようにと祈っていきたい。

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