会って、伝えたい!

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「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」(祝日法)という日が「敬老の日」である。1965年に9月15日をその日として祝日に制定し、2001年からはハッピーマンデー制度により9月第三月曜日となった。私にとって「敬老」の身近な対象は両親であったが、既に他界している。臨終に間に合わず、直接耳元で「ありがとう」と告げることができなかった経験は、無念な思いだけを私に残していた。

パラリンピック、女子バトミントンダブルス優勝のA選手が、優勝インタビューで「早くみんなに会って、感謝を伝えたい!」と満面の笑顔で応えていた。「支えてくれたみんなに感謝している」ではなく、「会って、伝えたい」と彼女の口から自然に出たのは、車椅子生活で人に会うために、我々よりも多くの時間と人を介さなければならないという日常があるからだろう。その大切さを日常で知っている彼女に比べ、私は如何にそのことをないがしろにしてきたことか、「両親に会えずに伝えられなかった無念さは、一体どこに行ったのか!」と改めて思い直してもいるが、コロナ禍の中、「会って、伝えたい」という、ささやかだが最後の機会さえ奪われた多くの人には、彼女の言葉はきっと届いていたことだろう。「会って、伝える」、ささやかな行為だが、高齢者の仲間入りをしている私には、今を支え、未来に向かう力になっていくのではなかろうか。

イエスは実によく歩かれた、人々に会うために。歩くことしかなかったからだと簡単に結論付けてはなるまい。宣教の初期、イエスの名が知れ渡る度に、「おびただしい群衆が来て」(マタイ4:25)、「自分を取り囲んでいる群衆を見て」(マタイ5:1)等々、人々が押し寄せて来た。彼は出掛けなくても、彼の所に来る人々に教え、癒(いや)せば良かったのである。しかしイエスは「町や村を残らず回って」(マタイ9:35)、御国の福音を宣べ伝えられた。イエスは、「会って、伝える」ことが大切なことを知っておられたからである。

リモート会議続きの毎日、私たちの心は飢えている、「会って、話すこと・伝えること」に。どんなにリモートが発達したとしても、「会って」という行為がもたらす喜びや感動を生み出すことはできない。「お父さん!」との子どもの呼び掛けに、背中を向けたままで返事せず、顔を向け、「会って、話す・伝える」ならば、子どもたちもきっと真剣に受け止めてくれるに違いない。

リモート上ではなく、会って、(福音を)伝えたい!

 

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