こんな時だから

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「今、君がすることはしっかり食べて元気でいることじゃないか。」と友人のK君がアドヴァイスしてくれた。ほぼ半世紀前のことであった。その頃の私は高専の4年、進路について随分悩んでいた。学生運動の集会にいったり、養護施設のボランティアに出かけたりしながら、専攻している化学で生きることに希望を見いだせなかったからだ。当時の私はフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユの著作の幾つかに触れていた。彼女は、ロシアマルクス主義の指導者レーニンがいう、「戦争が始められたら民衆は何はともあれ民衆の『大祖国』であるソ連を守るように戦うべきだ」という政治理念に、「民衆と同じ地平で賃労働をして生活したことがないからだ」と批判的な文を書いていた。だから彼女自身は民衆と同じ地平に立つために本気で一介の女子行員となったり、スペイン内戦では自ら義勇兵に応募し向かったりした。(参照:HP「じんぶん堂『甦るヴェイユ』より」)「同じ地平線に立つ」という思想・視点に受洗したばかりの私は、いたく共感していた。その結果、虐げられている人々のために生きるなら、自らも同じ状況になることが必要ではないかと考えていたからだが、K君は「その人たちのために戦うのなら、同じ状況に自らを置くのではなく、その人たちのために戦う自分が先ず元気でいなければ」ということを告げようとしてくれていたのだろう。

心が悲鳴をあげている、ウクライナの地で起こっていることに。いつ爆撃されるか分からない恐怖の中で、国を、愛する家族を守ろうとするウクライナの人々の姿に、具体的には何もしてあげられないというもどかしさを覚え、その一方で平穏な日々を過ごせている自分が後ろめたくさえなってしまう。悲痛な表情で「戦う」と語る若者をみては我が子を重ね、「母が街に残っている」という女性が語るのを聞いては生前の我が母を思う。「訓練といわれたのにやってきたのは戦場だった」と捕虜になった若いロシア兵の姿にも「哀れ」が浮かんでくる。悲鳴を上げているばかりの心は暗くなるばかり・・・。こんな時だからそれも仕方ないと思い始める自分に、半世紀前のK君の言葉が再び語り掛けてくる、「こんな時だから、先ず自分が元気であること、元気があればウクライナの人々が再び国を取り戻し復興する支援をし続けられる」と。

「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)と告げられた主は、同じ様に十字架に付けられることを望まれたのではなく、私に出来ることに向き合い背負うことを望まれたのであり、だからこそ「こんな時には先ず元気を出して背負える力を養いなさい」と言われるのではなかろうか。

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