憎しみからは何も生まれない

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ウクライナ東部マリウポリから覚悟を決めて避難してきた女性が、「道路には沢山の血が流れ、幾人もの遺体を見ながら避難してきた」と途中の様子を語っていた。そして彼女は続けて「でも、私は憎しみや怒りを持ちたくない。憎しみが戦争を生み出すから」と訴えるように語っていた。平和な街が不当な侵攻によって破壊され踏みにじられるのを体験して尚「憎しみや怒りを持ちたくない」とは驚くばかりである。私自身が平和の中から「憎しみからは何も生まれない」と語るのとは訳が違う。日常が破壊され恐怖に晒(さら)されている中で語られたその言葉は重たい。なぜなら、襲い来る恐怖の中で激しい憎しみや怒りを覚えたとしても、誰も非難することはないような状況にあるにも関わらず、そう語っているからだ。でも「憎しみを持ちたくない」という言葉を発するまでに、彼女は数えきれない程の憎しみを覚えたのではないだろうか。その上で、憎しみを持つ限り、たとえ今の戦争が止まったとしても新たな戦争が生まれるだけだということに辿り着いたのではないか。

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカ6:27)幸いについての教えの中でイエスご自身がそのように語られているが、イエスは「憎しみ」という感情を持っておられなかったのだろうか。この聖句、また他の箇所からも私たちには何も分からないが、少なくとも、イエスご自身が「憎む者」と語っておられる以上、人間の中のその感情を知っておられたということになる。以下はあくまでも私見であるが、最後の晩餐(ばんさん)の後、オリーブ山(ゲッセマネの園)では、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り除けてください」(ルカ22:42)と汗が血の滴るように地面に落ちながら祈られたことを思うと、それは単に十字架を前に最後まで従順であるようにという自分のことよりも、自分が死ぬことによって弟子たちや人々に、そしてもしかしたらご自身にも「憎しみ」が生まれないようにと祈られたのではないだろうか。そう思える根拠もある。十字架の上で語られた言葉のひとつは「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください」であったが、それは神の赦しというだけでなく、イエスに従った人々と捕らえた兵士たちが互いに憎しみ合うことが無いようにという言葉(祈り)ではなかったかと思うからである。

憎しみは私たちの自然な感情として存在する。「持たない」で生きることは難しいが、少なくとも「憎しみ」と向き合い、その先の世界を想像することこそが、憎しみのない世界の近道であると思う。かの地に平和が訪れることを願いつつ。

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