あなたの名前を知っている|名前を呼んでくださる神

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娘さんが用意してくれた金沢のアパートへ避難するというご婦人が、インタビューに応えておられた、「住む所もないので仕方ない。でもこの歳になって知り合いがいない所には行きたくないのだけど・・・」と。その方の顔が母の顔と重なった。転勤族であった父の定年間際の勤務地は佐賀、そのまま終の棲家を建てた。新興住宅街として造成され、最初の頃の居住者で、古株として地域の方々からも親しくして頂いたようだった。「子どもたちが通学時に『おはようございます、行ってきます』と声を掛けてくれる」と嬉しそうに話すので、なかなか帰省できない私も安心していた。

母は7年前に他界したが、その4年前に父が亡くなり、一人で佐賀に住んでいた。父が亡くなってから急に老いが深まったようで、久しぶりに帰省した際に私が目にしたのは、二階には自力では上がれない事、買い物は道路を横断しなくてよい遠い店に行っているという状況だった。「市川に来ないかい?」と教会の近所の施設を利用することを考えながら誘うと、「ありがとう、嬉しいよ、その内にお世話になるから」と言葉にはするものの、その決断を母にさせることは難しいということも感じていた。知らない土地への不安、大好きな庭いじりも他愛無いおしゃべりもしない日常は、想像できない事だろうから。でも一番大きなことは、能登の方がおっしゃっていたように知り合いがいないことであり、換言すれば「私の事を知っている人がいない」ということだったのだろう。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と、木の上の彼にイエスは声を掛けられた。その上、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とまで言ってくださった。彼は徴税人の頭、支配しているローマのために働き、異邦人と交わる罪人と認知された存在だったから、恐らく親し気に名前を呼んでもらうことも無く、彼の家を訪れる人は皆無であったことだろう。イエスは初対面であるにも拘らず、まるで旧知の間柄であるかのように名前を読んでくださった。(ルカ19:1以下)ザアカイの嬉しさは、この箇所を読む度に私の心も躍らせる、イエスはきっと私も同じように名前を呼んでくださっているに違いないと確信するからだ。

12年前の会堂修復工事の際、犬の散歩をしていた私に見ず知らずのご婦人に声を掛けてこられた、「教会、無くなっちゃうんですか?!」。「修復ですから無くなりませんよ」と応えつつ、教会が受け入れられていることを実感した。

「あなたの名前を知っている」、神様の声が聞こえますか?

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