立ち止まる|本当に大切なことに気づくために

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先週、私たちの会堂補修工事を担ってくださったI先生のことを記したが、その先生より点検結果の報告書をいただいた。損傷の現況・修理点検の留意事項等、細部にわたっており、工事に携わった者として率直なお気持ちを聞かせて頂いたと感じる報告書によって、今後の修理方針に光が差し込んだようにも感じた。しかし、少し私たちの感覚とは違和感があり、何度か読み返している内に気付いたことがあった。それは報告書の修理方針に「文化財としての価値を損なわないように修理する」と記されていた部分である。確かに私たちも文化財であることを意識しているものの、私たちの本音は「文化財だから修理する」のではなくて、「宣教のために文化財であることは有益であるから修理し続ける」ということにほかならない。I先生には少し申し訳ないが、もし宣教を滞らせるような状況に陥れば、「登録有形文化財」という看板を降ろすことも選択肢として有り得る。勿論、そのような事態にならないことを願ってはいるが…。I先生という第三者の視点をいただくことで、私たちは「宣教のための会堂」という大切な視点を、立ち止まって見詰め直せたような気がしている。

ルーテル教会の礼拝は「懺悔に始まり祝福で終わる」と私は教えられてきたが、改訂された式文は、「私たちは招かれてここにいます」と始まる。それは「招きに始まり祝福で終わる」と、神の働き掛けが強調されるようになったということである。では何故、神は私たちを招こうとされるのだろうか。マタイによる福音書には「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11:28)とあるが、私たちの心の疲れを取り除いてくださるために、私たちをみ前に招いてくださるのだ。だからこそ、「招かれてここにいる」のだが、しかしもう一つの理由があると私は思う。それは人の思いに左右されている私が、「一人も滅びない」(2ペトロ3:9)ことを願っておられる神のみ旨に触れる事によって、「私が私らしく」生きることができるようになるためでもあるだろう。だから神は「立ち止まって、神とそして他者と共に集い、心を元気にしなさい」と私たちを礼拝に招いてくださるのである。そう言えば、主イエスも度々、祈るために山にお登りになった。(マタイ14:23等) それは立ち止まって思いを巡らす時であり、同時に神が共にいてくださることを確かめるためだったのだろう。まして私たちは主イエス以上に神の招きに応えることが、どれほど必要なことか言うまでもない。

今にして思うと、窓ガラスのヒビ割れは、会堂の声だったのかもしれない、「立ち止まって、何のために保存し続けるの?」と。

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