見せかけの正しさに惑わされない

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第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人 の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。

 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くため である。(マタイによる福音書9章13節)

【解 釈】
イエス在世当時のユダヤ社会は差別社会であって、社会的な意味で「罪人」といわれる被差別階級に属する人たちと一般人とは一線を画していた。「罪人」とは、 売春婦など、当時の道徳から外れた人々のことであった。その他、社会的に差別をされた者のなかには、宗教を異にする外国人やユダヤの支配者ローマ帝国の手 先として民衆から税金を取り立てる徴税人も含まれていた。しかしイエスは、これらの被差別社会階層に属する人たちとの交流を避けることをせず、かえって彼らと食事を共にし、積極的に交流の機会をもった。

この言葉が語られたのは、自らを清く正しいとする当時のエリート階級ファリサイ派の人たちが、イエスが徴税人マタイの家で食事をしているのを見て、イエスの弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」となじったときの言葉である。これにたいするイエスの言葉の背後には、口では正しいことを言うファリサイ派の偽善を暴露する意図がある。徴税人として差別されていたマタイは、このとき以来、弟子としてイエスに従うようになる。

【こころ】
理屈と膏薬はどこにでもつくと言われますが、言葉というものは便利なものです。たとえ嘘でも、筋が通っているともっともらしく感じますし、心のどこかで少し変だと思っていても、まあまあとすませてしまいます。ましてそれに説得力が加われば、内容を吟味する前にうなずいてしまうことだってあるのです。もっともらしく、それらしく見せかけた正しさに幻惑されて、つい物事を促してしまうことだって珍しくありません。でも心のどこかでは、ハテといぶかしんではいるのです。

当時の教えからするとまちがったことだと判断したファリサイ派の人たちは、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言います。 その問いかけにイエスは、もっともらしい見せかけの正しさを感じたのです。人がほんとうに見聞きしなければならないものはなにか、イエスはその思いを込めて、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたのです。 この「招く」という言葉には、招待するというより、呼び出すという意味があります。 罪人として社会から差別されている人たちを裏社会から表舞台に呼び出すことによって、 人が生きているほんとうの世界とはなんであるかをイエスは示したかったのです。 多くの場合、ほんとうの世界は、見せかけの正しさの後ろで泣いています。ほんとうの世界は、ときには毛嫌いされているのかもしれません。でも人は心のなかではほんとうの世界をいつも求めています。もしその世界を手に入れようと思うなら、罪人の世界に生きている自分を見つめることです。そうすると、きっとほんとうの世界に向かって呼び出される声を聞くにちがいないのですから。

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