二つの「時」|クロノスとカイロス

image_pdfPDFに変換するimage_printプリントする

(136)

教会の庭の銀杏の落葉を眺めるようになると、特に強く二つの「時」に思いを馳せる。月日と共に移ろう「時」と、教会暦の終わりの「時」である。前者は全ての人に変わることなく刻まれていく「時」であり、後者は私たちキリスト者が大切にしてきた教会暦の「時」である。そして教会暦の終わりと重なる11月は、亡くなったすべてのキリスト者に思いを向けて祈りがささげられる。(11世紀頃には定着していたと言われている。)カトリックでは11月1日を「諸聖人の日」、翌日を「すべての死者の日」としてミサが行われるようだが、聖人信仰のないプロテスタントでは、11月1日を「全聖徒の日」として教会暦の中に組み入れ、11月の第一週目の日曜日に「全聖徒主日」として召天者の記念する祈りがもたれることが多い。だからという訳ではないが、個人的に11月は1分1秒と刻まれる「時」と信仰上の「時」を意識せざるを得ないのである。

「時」を現わすギリシャ語は二つ、クロノスとカイロスである。前述したことで言えば、前者がクロノスであり、後者がカイロスである。成長したキリストは、宣教の始まりに「時は満ち、神の国は近づいた。」(マルコ1:15)と述べ、神の働きの始まりを高らかに告げられた。即ち、カイロスの時が始まったということでもあり、それは今を生きる私たちも、1秒々々を刻んで生きつつ、神の働きを頂きつつ生きていると云うことにほかならない。40年前、神学校の最終学年の時にお世話になったT牧師は、「洗礼は神様からのプレゼント、讃美(歌)は私たちから神様へお返しする物」と良くおっしゃっておられた。まさに「洗礼」はカイロスの目に見える瞬間であり、だから「洗礼を受けたい」という気持ちを上手く説明出来なくても良いと私は思っている。後はどのようにお返ししたら良いかを、与えられた日常の中で考え行っていけば良いのだろう。私たちは地上の生が終わる時まで神に心を開いているならば、沢山のカイロスに出会う事であろう。

ところで、私たちの教会では、召天者記念の祈りを、聖霊降臨後最終主日(今年は11月26日)に行っている。この主日の教会のテーマは「永遠の王キリスト」。十字架による罪の贖(あがな)い、そして復活によって、「死は勝利にのみ込まれた」(1コリント15:54)と告げられている。即ち、「死という壁が打ち破られ、死は終わりではない事が約束されている」と、この日のテーマが告げているのだから、教会暦の最後の主日、「死=死者の月」と「生=キリストの誕生(新しい命の誕生)」が隣り合わせになる教会暦の最終主日こそが相応しく、先述の二つの「時」を、召天者記念の祈りを通して体現して欲しいと願っている。

関連記事