表面だけで人を判断する愚かさ

第四章 自戒するとき

人はだれしも自分自身のなかにあるいやなものを見つめたくはない。同時に、だれひとりとして自分のなかにいやなものをもたない人はいない。自戒するとは、自分のなかのいやなものと正面から向き合うことである。向き合うことによって、いやなものを捨てることが自戒ではない。自分にとっていやなものが果たしてきた意味を知ることであり、そこから新しく生きる自分を学び取ることが自戒である。そのとき、いやなものはただいやなものとしてあるのではなく、新しい自分をつくるためのエネルギーとしてあると受けとめることである。

 あなたはいかなる像も造ってはならない。(出エジプト記20章4節)

【解 釈】
人はなにかを信じなければ生きることができないと言われる。信じるとは頼ることのできるものをもつということである。神も信じられない、かといって自分も信じられないとなれば、不安になって、どう生きてよいか分からなくなる。それこそ、生きるために必死になって頼ることのできるものを探す。いちばん手っ取り早いのは、この世のものである。いかにも確かであり、手応えがあって頼りがいがあるからである。これが偶像を造るという意味である。偶像は、お金や名誉、地位、恋人、学歴、偏差値である。要するに手っ取り早く、しかも生きるのに頼りがいがありそうなものはなんでも偶像になる。そういうものに頼っていても仕方がないと心のなかでは思っていても、それらを手放すとなると不安になるどころか、死んでしまいたくなることだってある。偶像とはそういうものである。

しかし、偶像はあくまでこの世のものである。この世のものには、絶対とか不変ということがない。いつかは変化するのであり、限界もある。偶像には絶対ということがない。つまり相対的ということである。安んじて生きるためには、不変の絶対的なものに信頼の心を寄せねばならない。それがあなたに必要なのだと聖書は言っているのである。

【こころ】
名刺に肩書きがないと価値は半減します。多くの人は名刺をもらうと肩書きを見ます。その肩書きがその人の評価の尺度です。名前だけでは、人は評価をしてくれません。一肩書きをもった生活が続き、やがて定年を迎えるころ、名刺から肩書きが消えて、名前と住所だけになるのは当然のこと、分かり切ったことだと割り切ったつもり でも、いざ肩書きを失えばやはり一抹の淋しさが心の片隅を占めるものです。と同時に、 なにかしら心の拠り所がほしいと思うのもこのころからです。もう一旗あげようと世のなかで頑張るか、ボランティアでもするか、趣味を生かしてなにかするかなどと、あれこれ生きがいに通じる世界を模索するのです。こういうときこそ大切に過ごしたいものです。絶対的なものを探る生き方を選ぶか、それとも行きあたりばったりで残る人生を 過ごすかの分かれ道でもあるからです。

教会に、職人としての生活を誇りとしている人がいました。
「先生、人間ってものは面白いもんだよ。私が仕事の法被を着て教会に来ると、たいていの人はなんとなくけげんな顔をする。背広を着てくるとニコニコする。人間は着ているもので人を見ちゃいけねえ」

この言葉は、いわば肩書きで人を見るような生き方をするなと言っているのと同じです。と同時に、人間はなにをもってほんとうに生きるべきかを実感としてとらえた人の言葉でもあるのです。こういう人には、しっかりと肩書き抜きで生きていないと、相手にしてもらえません。

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