善行をするように人はつくられている

第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人 の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。

わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。 (エフェソの信徒への手紙2章10節)

【解 釈】
使徒パウロの言葉で、人間は善行を積まないと救われないとする考えに警告を 発しているのである。パウロは、善い行いがあって人間ははじめて善人となるの ではなくて、むしろ逆に、善い行いをするようにと前もって造られていると言っ ているのである。以前の口語訳聖書では、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように……造られた」とある。神は人間に条件を出しておいて、その条件を満たさないと善い人間にはなれないとは言っていない。善い行いをするように前もって造られており、そのためにあらかじめ準備がされているとパウロは言っているのである。
宗教改革者ルターは、「信仰があれば、たちまち手を振り、足をあげて踊りたく なるものだ」と言い、踊らなければ信仰がないかのような考えに警鐘を鳴らして いる。善い行いはあらかじめ約束された当然の結果である。もしそうでないなら、 神の恵みに目をつむることになる。

 

【こころ】
「わたしたちは神に造られたものである」という言葉には、神の作品として作られたという意味も込められていますから、地球を美術館と仮定して、地球美術館 に展示された人間を、神が造ってくださった作品だと考えるとどうでしょう。美術館なのですから、だれもが芸術作品ということになります。とは言っても、なかには駄作や 贋作があるかもしれませんし、もう少し手を入れればきっと良い作品になるというものもあるでしょう。少々いびつだなと思われるものだってあるかもしれません。でも、それはあくまで鑑賞する側から見ての話です。
「わたしたちは神に造られたものである」という言葉には、造ってくださった方の意志も込められています。「善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです」というもうひとつの言葉がそれを表しています。善い業のために神の作品として造られたということは、すでに優れた目的を先取りした作品ということです。作品を鑑賞する側から見れば、いろいろな批評が飛び交うでしょう。しかし、どのような批評がなされようと、すでに善き業のための作品であると見なされていることの意味を考えたいものです。そこから自分という存在を眺めてみれば、ちがった角度で自分という作品が見えるにちがいありません。

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