負の勇気が生活にゆとりをもたらす

第三章 自らの勇気を奮い立たせるとき

勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。

わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。(詩編23編5節)

【解 釈】
信仰をもつ者の態度をよく表した言葉である。「わたしを苦しめる者」とは敵を意味しており、用心しなければならない相手である。人はこのような相手を前にすると、絶えず緊張を強いられるし、不安でもある。いらいらしたり、眠れない夜を過ごすこともある。世のなかはこれと同じである。それがなんであれ、人は苦しめる者の前に生きていることが多い。緊張や不安はつきものである。そういうときには、おちおち食事ものどを通らない。だから、苦しめる者などいないことを願うのである。私たちの日常の生活はその願いで満ちている。

この詩編の作者は、そうではない。苦しめる者がいてもよいのである。それは現実だからだ。いなくなれと言っても、すぐ退散してくれるわけではない。敵はいるのが当然である。しかし信仰は、その敵の前で悠々と食事をすることを許すのである。それも、いつの間にか敵の前に食卓が用意されているのである。信仰生活とはそのような心境を人に与える。

【こころ】

 電車がホームに入ってくるのが見えたので、急げとばかりに駅の階段を駆け下りたはよいのですが、日の前で無情にも電車のドアが閉まるといった経験はだれしもがすることです。「この野郎、なんという奴だ、お前は」と怒鳴りたくなります。その瞬間、目の前でドアが閉まる電車は私の敵です。今や私は敵の前で慌てふためいているにすぎません。目の前を通り過ぎる電車を見送りながら、口惜しさ抑えて、次の電車を待つことになります。

一刻でも早く電車に飛び乗ることが世間に勝利することであるかのような感覚からすれば、それは敗北のような感じがします。しかし別の視点を取れば、気持ちのなかで少しばかり負けたような、あるいは身を引いたようなある種の勇気が必要とされることに気づくでしょう。これを負の勇気とすると、この勇気がどれほど世のなかを生き抜く上で必要なことかと思います。常に勝ちを求めるこの時代にあって、この勇気はことに重要です。たとえ敵は相変わらず眼前にいるとしても、それは悠々としたゆとりの態度を取ることに通じるからであり、結果としては新しい生き方を確保しているのです。

詩編の作者が、敵の前で食卓を整えると言うのは、実はこのような負ける勇気を日常にもてという意味なのです。

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