意に反する勇気がいるとき

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第三章 自らの勇気を奮い立たせるとき

勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書25章40節)

【解 釈】
世のなかには、今すぐにでも、それをしなければならないことではあっても、そんなことより、もっと大事なことをしたほうがよいと思うことがある。

イエスが「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言われるのは、こんなことより、もっと大事なことがあると思われることに遭遇したときにも、あえてそれをしたのはわたしにしたことだと言われるのである。もっと大事なことがあると思っているときには、そんなことはしなくてもよいのではないかと、なんとなく避けたいと思う。それをするのには勇気がいる。そのようなとき、この言葉は役に立つ。小さなことの向こう側に大きな世界の広がりを発見して、心が豊かになる。したからといってだれも褒めてくれるわけでもない。こんなことで時間と労力を取られたくないと思うような、脇の小道にそれるようなことであっても、それを通してイエスを相手にする世界があるということを、この言葉は教えているのである。

【こころ】
ヘンリ・フォン・ダイク(アメリカの宗教家)によるクリスマス物語として有名な「もうひとりの博士」という話があるのをご存じでしょう。もうひとりの博士アルタバンは、メシアに会うためベツレヘムヘと旅立つほかの三人の博士に同行するはずでしたが、途中思いがけず人助けをしたため約束の時間に遅れて一緒には旅ができませんでした。彼はひとりぼっちでメシアを探す羽目になってしまいます。その間に、彼がメシアヘの贈り物として用意していたサファイアもルビーも、らくだを買ったり、赤ん坊を殺そうとするローマの兵隊に渡したりして、残った真珠だけを後生大事に抱えていました。故郷を出てすでに33年という年月が流れ、アルタバンはすっかり老いさらばえていました。

エルサレムに着いた日は、ちょうどゴルゴタの丘でキリストの処刑が行われる日でした。アルタバンはそのお方が探し求めていたメシアであることを知って、残った真珠を捧げようと最後の力を振り絞って丘を登ろうとします。そのとき、ひとりの少女が奴隷に売られて行くのを見かけます。彼はメシアに捧げるために最後まで大事に取っておいた真珠と交換に少女を救ったのでした。力つき息も絶え絶えになった老アルタバンは耳元で「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という言葉を聞くのです。

フォン・ダイクがこのアルタバン物語を通して言いたいのは、たとえ思いどおりにならない人生があったとしても、実は大きな意味や価値があるのだということです。意に反すること、乗りかかった船、行きがかり上のことで人生が大きく狂うかのように思えることがあるでしょう。けれども、そこに人生の本筋があるのだと、この言葉は教えているのです。

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