一年の計画|命の使い道

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「一年の計は元旦にあり」を思い浮かべつつも、実行したことはない。いや、正確に言えば、「今年こそは・・・」と考えたことは何度もあるが、大抵は三日坊主で終わってしまうという意味で、実行したことはないのが私である。無理な計画を立てたつもりもないのだが、ただ、「実行し続ける」ということが怠惰な私には無理で、三日もすれば「明日から~」になり、その数日後には「来年からに~」とズルズルと不言実行ならぬ不言不実行で終わってしまうのが例年の事であった。何事も最初が肝心という意味からすれば、最初から躓いて一年を過ごし続けてきた人生であったと反省する私だが、今年は少し違う。

年末、テレビの映像 (日付も番組名も語っていた人も忘れた)から、「『一年の計』という言葉があるが、それは一年の命の使い道という事だと思う」という主旨の発言が聞こえて来て、ハッとした。「そうだよなぁ、今年はこんな風に命を使おう」そう思えば、「計画を立てる」ということへの見方、思いも違ってくることに気付かされた。それは何も「一年」に限らず、一日一日も同じであろう。「今日は何をしようか」ではなくて、「今日は何のために命を使おうか」と考えれば、その重さの違いが理解できるというものだ。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)。一日の、あるいは一年の計画は立てなくても、キリスト者は人生の計画を与えられている。それがこの聖句である。一人ひとりに与えられた賜物は違うし、環境も異なる。それぞれが与えられた場、与えられた時の中で、それを十字架として背負って生きること、前述したことから言えば、与えられた時・場所で自分の大切な命を使うということではないだろうか。ところが、同じ聖句が、ルカによる福音書では「日々、自分の十字架を背負って」(9:23)と、「日々」という言葉が加えられている。「今日一日、あなたに与えられた命を大切に用いなさい」と福音書記者ルカは言いたかったのではあるまいか。

新しい年を迎えた。「あれもしたい、これもしよう」等と命の使い道を、多くの方が考えたことだろう。しかし今年はいきなりの地震で多くの方々の命や生活が奪われてしまった。亡くなられた方々に神様からの慰めを祈ると同時に、被災された方々にひと時も早く新しい希望が与えられるようにと祈りたい。そして私の命も被災者の方々のために少しでも使うことを考え続けていきたいと今年は強く思う。

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