思い起こせ!   

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「密を避ける」、耳にタコが出来るほど聞かされ、もはや足先から頭のてっぺんまで沁み込んでいる。外出すると、体の全てが「密を避ける」ような動きをしてしまう自分がいる。そんな自分に気付いて、何とも物悲しい気持ちになってしまうこともしばしば。自分のことだけではない。テレビを見ていて思わず「密じゃない?!」と口をつくこともあるし、ワクチン接種の進む国が制限なしで催しを再開すると聞くと、「大丈夫かなぁ、密になって」と思ってしまう。仕方ないとも思う、コロナ禍は続いているのだから。心に根を張ってしまった「密を避ける」は、コロナ禍後も続いてしまうのだろうか。

「おびただしい群衆が、そばに集まってきた。」(マルコ4:1)「大勢の群衆が集まって来た。」(マルコ5:21))イエスの周りには常に人々が押し寄せてきていた。福音書にはそのような状況が沢山書き残されている。主イエスを求める人々が大勢いたからである。彼らは何を求めてイエスの許にやってきたのだろうか。病からの癒し、貧困からの脱却、困難な問題の解決、新しい教えへの期待等々、様々な思いを抱えてイエスの許にやってきたのだろう。様々な制約(律法の取り決め)が、人々を分断し孤独を生み出していた社会の中にあって、イエスという方のところには誰もが行くことが出来、イエスもまたそれを拒まれないことを、そして「あの方なら、体も心も満たしてくださるかもしれない」と期待して、「行ってみよう」という気持ちにさせたということは十分あり得ることである。そこには「イエスと私」という繋がりを実感できるというだけでなく、「私と隣人」という繋がりをも実感できるからこそ、イエスの許に集まってきたのではないだろうか。「密を避ける」という新しい概念で日々を過ごさざるを得ないが、「群衆の中のひとり」になることは大切なことなのだと心に刻み直している。

思い起こそう、神は人を造られた時に「人が独りでいるのは良くない」(創世記2:18)と言われたことを。だからコロナ禍の中にあって、神はこう言われているのではなかろうか、「人が密を避けることは良くない」と。私たちは取り戻さなければならない、感染・ワクチン接種の有無を問わず、主の許に集う「大勢の群衆のひとり」になれる時まで、今、自分に出来ることに真摯に向き合っていきたい。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133:1)感染の危険を冒してまで会わずとも、群衆のひとりになれる喜びを、主がきっと備えてくださることを思い起こして、この時を過ごしたい!

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