はじまりの一歩|イースター(復活)の力

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イースターが「春分の日の後の満月の次にくる日曜日」と制定されたのは、325年のニケヤ公会議であった。それまでは「罪からの解放の記念と再臨待望」が強調されていたが、この会議後は「復活の記念」が強調されるようになった。(教文館:キリスト教大事典より)今年は4月7日が満月なので4月9日がイースターとなる。クリスマス程ではないが、イースターについても少しずつ取り入れる所が多くなっている気がするが、忘れてならないことは、「イースターはキリスト教の始まり」であるということだ。「クリスマスからではないの?」と言われそうだが、迫害の急先鋒に立っていたパウロは、キリストの声を聞き信じた後、次のように記すのである「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(1コリンと15:12〜14)と。だからこそ復活がなければ宣教も信仰も無駄、即ちキリスト教そのものが始まらなかったと言えるのである。

さて復活の最初の目撃者はマグダラのマリアである。空っぽになった墓で、イエスに名を呼ばれた時、彼女はどんな思い、どんな表情をしていたのだろうか。イエスの死に立ち会っていただけに、驚き恐れ、そして戸惑いが覆っていただろうが、同時に「これから一体何が始まるのだろう」という緊張と期待とが、彼女に溢れていたことだろう。 話しは変わるが、先日保育園で3才児とはじめて礼拝を守った。乳児クラスに入園していても、私と全く接することがなかった子どもたちで、コロナ禍によって全園児参加の行事が3年間殆ど行われなったからである。礼拝する部屋に入る私を、子どもたちはじっと見詰めていた。「この人は誰?何が始まるの?」という子どもたちの思いが、私の胸に突き刺さってきた。3才にしてはちょっと堅い表情、見開いた目からは緊張と期待が感じられ、マグダラのマリアも同じ表情でイエスを見詰めていたのかもしれないと思えてならなかった。子どもたちの心に、「初めての礼拝」がどのように刻まれ、どんな一歩を踏み出してくれたのか、次の礼拝が楽しみである。

4月を新年度とする私たちの国で、キリスト教の始まりであるイースターの時を過ごせることは幸いなことだ。既知の出来事としてのイースターではなく、マリアや弟子たちが覚えた緊張と期待を、リアルタイムで感じる機会が与えられているからだ。最初のイースターを思い起こしつつ、良き「はじまり」が与えられますように!

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