アディアホラな事|日常の中のアディアホラ

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大学の学びを終え、神学校進学を控えたある日、三鷹駅のプラットホームで、教義学を教えてくださっていた故石居正巳先生と一緒になった。45年も前のことである。(その頃私は新宿でビルの管理人のアルバイトをしながら通っており、石居先生は蒲田教会を牧会しながら神学校で教えておられた。)私を見つけた先生は、おもむろに「神学校で卒論のテーマは何をするんじゃい(石居先生の口調のまま)」と問いかけてこられた。明確に決めていた訳ではなかったが、平和について関心があったので「平和の事、ですから実践神学ですかねぇ」と応えると、「礼拝学をやらんか?」と。その後の会話は覚えていないが、先生に背を押され礼拝学をテーマとすることにした。

礼拝学を研究する際に避けて通れないものが「ドイツ・ミサ」と言われるルター派最初の礼拝式で、ルターが手掛けたものである。カトリックで行われているミサの式次第から、欠かすことができない大切な事と、用いても用いなくてもよいもの(アディアホラ)を考慮しつつ整えられた。ルターは「御言葉(聖書・説教)と聖礼典(聖餐・洗礼)」の二つを欠かすことができないものとし、その上でカトリックのミサから信仰の助けになるものを残していった。私も卒論を整える際に、この「ドイツ・ミサ」の学びから始めたが、この学びは私の牧師としての在り方にも大きな示唆を与えてくれたものとなった。

イエスの宣教の歩みも、まさに「何がアディアホラ(どちらでも良い)な事柄か」を明らかにする歩みであったと言って過言ではない。安息日に麦の穂を摘み食べたことをみたファリサイ派の人々は、「安息日にしてはならないこと(穂を摘む=仕事をする)を行った」と非難したが、イエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」とはっきりとおっしゃった(マルコ2:23~28,他)。キリスト教最大の伝道者パウロも、福音を多くの人が受け入れ救われるために、ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持っている人には持っている人のように、もっていない人にはもっていない人のようにふるまったと記している(1コリント9:19~23)。

牧師としての働きの大半は、「アディアホラ」な事を見分ける務めだと思ってやってきた。そして今、引っ越しを前にして、これからの引退生活に本当に必要な物は何かと考えていると、半分以上は「アディアホラ」な物と判明。今は断捨離に励みつつ、引退前の日々を過ごしている。

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