成し遂げることよりも・・・

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今週の水曜日は「灰の水曜日」、この日から受難の時(以下四旬節=日曜日を除く40日)に入る。四旬節の最後はイエスが十字架に付けられた時、すなわち主の受難を憶え、そして復活の時を迎える。イエスが十字架に付けられた際、七つの言葉を語られたと言われている。この6番目は次の言葉である。「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ19:30)アダムに始まる人間が背負ってきた原罪(神に背いて生きる)が、イエスが十字架に付けられ犠牲となってくださったことによって贖われた(成し遂げられた)という宣言である。罪の贖いはすべての人に及んでいるので、そのことを信じて受け入れる者には救いが与えられることになる。だから復活したイエスは弟子たちに次のようにお命じになった。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19〜20)この言葉を受けて弟子たち、多くのキリスト者たちがイエスの言葉を実現させようと御言を宣べ伝え、世に仕えてきたが、2千年後の今も、それは成し遂げられていないのが現実である。

2018年の平昌オリンピック、女子スケート500mで金メダルをとった小平選手は、今回のオリンピックでは2種目に出場するも入賞は果たせなかった。彼女については多くのマスコミに取り上げられていたこともあるのでご存じだろうが、競技終了後に「成し遂げられなかったけれど、やり遂げることはできた」と語っていた。成し遂げられなかったからといって、彼女が目標を掲げ多くの困難を乗り越えた上でオリンピックという舞台に立てたことも事実である。結果はともかく、最後まで「やり遂げられた」という得難い思いが、彼女の表情にも伺え、私は思わずテレビの前で「お疲れ様」と呟いていた。

さて、話を元に戻そう。「すべての民を私の弟子に」との御言葉により、信仰の先達たちは示された地に赴き、福音に生き、天に召されていった。彼らは「成し遂げられなかったけれど、やり遂げた」という思いをもって地上の生涯を終えたことだろう。なぜなら、キリスト者にとって結果はどうであれ、最後まで主に従い続けることこそが求められているのであって、そこには「やり遂げることが出来た」という喜びが備えられていることであろう。

日常に起こる様々な行為のひとつひとつに、先ずは「やり遂げる」気持ちをもって臨みたいものだ・・・と、自戒をこめて記しておこう。

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