巡礼の心|日曜日の聖地巡礼

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日本で最古のバッティングセンターが6月末に閉館した。当日は別れを惜しむ多くの客が来店し、「センターはテレビドラマや雑誌の撮影場所としても多く使われてきたため、『聖地巡礼』を目的として訪れる人もいた」(6月29日NHK NEWS WEB)という。テレビで放映されていた映像には、ゲーム機のコーナーをうっとり見詰めながら写真を撮る数名の女性の姿も映されていた。私たちの会堂にも、一時期かなりの数の女性たちが来訪してきたことがあった。テレビドラマに会堂をお貸しした際、出演者に男性アイドルが出演していたからである。「若い俳優さんが主役」程度の認識でいた私には、アイドルのファンにとって「市川教会会堂は聖地」になっているとは考えもしなかったので、最初は不思議で仕方がなかった。しかし、会堂内を見学させてあげると、「ここに座っていたのよネ」とか、「この場所に立ってたワ」等と呟きながら、持参したフィギア(キャラクターをかたどった玩具)に同じポーズをとらせて写真撮影。あの時から、「聖地巡礼」に新たな意味を付け加えざるをえなかったことを、バッティングセンター閉館のニュースを聞きながら思い出していた。

詩編120篇から134篇に「都に上る歌」がある。聖地エルサレムへの巡礼に歌われたものである。巡礼を行うのは「年に三度(過越しの祭り、七週の祭り、仮庵祭の時)男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない」(出エジプト23:17)と律法に命じられているからである。ユダの第17代王ヨシヤ(前640~609在位)は、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)という申命記が大切にする精神に従うことを重要とし、全住民を過越祭に巡礼させた。巡礼が宗教心の覚醒や国民意識の保存や強化に役立つことを知っていたからである。キリスト教においても贖罪のための「聖地パレスチナ」への巡礼は、かなり早い時期から行われていたが、その後「聖母・聖人崇敬」が盛んになると、ゆかりの土地(ルルド・ローマ等)への巡礼も行われるようになったが、近年、安易な心での巡礼には批判もある。(プロテスタントは功績の概念を否定し、巡礼を廃止した。)

日曜日、教会に向かう私たちだが、それを巡礼とは言わないが、心を尽くして神に従うために教会に向かう足取りは、巡礼が大切にしてきたものと何ら遜色ない心である。だから「日曜日は聖地巡礼の日」と思うこともまた楽しいかもしれない。ただし、教会敷地に住宅がある牧師は、悲しいが巡礼の心から一番疎遠な所にいるのも確かだな。

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