河(川)を渡る|助けを知れば渡れる河(川)

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「東京の中心部でスーパーや鮮魚店などの移動販売車の運行が急拡大している。」そんな記事が目に留まった。移動販売車が回るのは主に都営住宅地。都内には約1600の団地があり、2019年には11か所だったが、今年4月時点では110か所を移動販売車が回っている。都市部でも買い物弱者のニーズが増えており、移動販売車創業者の住友達也さんは、「理由のひとつは幹線道路の存在で青信号の間に横断歩道を渡りきれないことで、『河』とも呼ばれている」と話す。(朝日新聞4月25日夕刊より要約)記事を読んでいると、8年前に亡くなった母が突然現れ「そうなんだよ、道路を渡るって大変なんだよ」と語り掛けてきたようだった。母は一人住まいだったためにどうしても買い物に自分で行く必要があった。しかし老いてからは100m程先にある大型スーパーとは逆方向300m程離れた店に行っていた。私はそんな母の話を「健康には遠くの店まで歩く方がいいから」と、楽観的に考えようとしていた。だが母が言っていた「近い方の店の前の片側二車線を渡れない、裏の道は車も通らないし信号がないから遠いけど仕方ない」という言葉は、実に切実な日常問題だったのだと、その記事を読みつつ胸が痛んだ。

河と呼ぶほどの大きな流れではないが、かつてイスラエルの民が荒野の40年を経て約束の地に入ろうとした時に彼らの行く手を遮っていたのがヨルダン川であった。神はその川を前にしてヨシュアを通じてこう言われた、「見よ、全地の主の契約の箱があなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く。今、イスラエルの各部族から一人ずつ、計十二人を選び出せ。全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」(ヨシュア記3:11~13)敢えて川を渡らせたのは、エジプト脱出の際、モーセに導かれた彼らは海を渡った。今、ヨルダン川を渡ることによってヨシュアを大いなる者とするためであると同時に、「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていた(同3:15)という困難に遭遇しても、神が常に導き支えてくださることを彼らが知るためであった。だからこそ「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」(詩編121:1~2)と彼らは告白するのである。

「河を渡れない」人々の希望となっている移動販売車、「河を渡れなかった母」を支えられなかった私だが、8年経って今年は「気遣いできなくてごめんね」と、二週間後に迎える「母の日」に、亡き母に届けることで許してもらおう。