記憶の不意打ち

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「先生、大丈夫ですか?」皆さんが声を掛けてくださった。「ありがとうございます。大丈夫です。」と私は応えた。

8月8日の日曜日、この欄に「看取りの時」を迎えていた我が家の老犬(以下ウル)のことを記したその日の昼下がり、ウルは息を引き取った。16才7ヵ月であった。舌を喉に詰まらせてしまい、私の腕の中で静かに呼吸が止まっていった。私は胸の動きが少しずつ小さくなっていくのを見ているだけだった。諦めというのでもなく、痛みをこらえて(多分、私のために)必死に生きようとしてくれている姿を見続けてきたので、「もう良いよ、ありがとう!」という気持ちで一杯だった。毎日散歩に連れて行っていた私を皆さんはご存じだったので、だから私のことを心配して声を掛けてくださったのである。

朝晩散歩に連れていっていたとはいえ、四六時中傍に居たわけではない。最初の10年位は外で飼っていたし、家の中で飼うようになっても同室にいたわけではない。なので、居なくなったとはいっても、私にとってはいつもと変わらない日常は続いていたことになる。ただ、いつもの場所に姿が見えなくなったという寂しさはあったものの、「元気を失くして落ち込む」という程のことはなく、だから「大丈夫です」と応えることが出来たつもりだった。だけれども、突然、ウルとの記憶が浮かんでくることがある。散歩の時に良く歩いた場所だとか、ほぼ決まっていた夕方の散歩の時間になった時だとかに、不意に記憶が浮かんでくるのである。その瞬間、どうしようもない程に心が揺さぶられてしまう。それが辛い。意識して思いだしたものよりも、無意識の時に心に浮かんでくるものに、私たちの感性は激しく揺さぶられる。無防備だからである。ペットロスの正体も、そういうものなのかもしれない。

湖の湖畔に立つと、不意に主イエスの優しいまなざしが浮かんでくる。山に登ると大勢の人たちと一緒にパンと魚を頂いて満腹し、心まで満たされた喜びが自然に湧いて来る。福音書を生みだした背後には、不意に甦る主との豊かな交わりの瞬間の記憶があったのではなかろうか。いや聖書の全ては、神が与えてくださった恵みの記憶の不意打ちに後押しされて整えられていった「神の言葉」なのである。

今はウルの記憶に不意打ちされて胸が締め付けられる時が多いのだけど、時がたてば不意打ちされても、素直に「ありがとう、楽しかったよ」と言える日が来るに違いない。ウルの御霊を神様にお委ねします!

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