見ることは愛情

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「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:36)「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。」(マタイ14:14)福音書に記されているイエスの宣教の様子である。宣教開始当初の活動地はガリラヤ湖周辺であった。神殿のあるエルサレムからみたら、ガリラヤ湖周辺は異邦人との境の地であり、ガリラヤからは預言者など出ない(ヨハネ7:52)と言われ続けてきた地であり、ユダヤの主導的地位の人々の目に入ることのない地と言っても過言ではなかった。しかしイエスは人々を見て(ご覧になって)、深く憐れまれ、人々を癒(いや)された。その姿勢は、古より変わらない神の姿でもあり、善きことに対しては恵みを与え、悪しきことに対しては裁きを行われる。それらの一つひとつを通して、人間を救わんとする神の愛情にほかならない。


「おとうさん、見て!」、幼稚園から帰宅した娘が、部屋に入るなり叫んだ。机に向かっていた私が振り返って娘の手を見ると、鮮やかな色の紅葉。幼稚園の帰路で拾ったのだろうか。大事そうに紅葉が乗った手を私の方に差し出してきた娘は、とびっきりの笑顔で目を輝かせていた。私は「きれいだね」と言って更に言葉を続けた、「外から帰ってきたら手を洗うんでしょう1」と。娘は少し不満そうだったが、「は~~い」と返事をしつつ部屋を出て行った。娘がいなくなってから、私は改めてドアを見詰めた。確かにキレイではあったが、何処で拾ってきたのか分からない落ち葉、それに途中で手を止めた仕事に戻りたいという気持ちが重なって、素っ気ない返事をしてしまった私の言葉と態度を、娘はどんな風に受け取ったのだろう。落ち葉とはいえその時の娘にとっては「宝物を見つけた」のである。「宝物をお父さんに見せてあげたい」、ただそれだけの気持ちだっただろうに、私は顔を向け素っ気ない言葉をかけただけで終わってしまった。幼児期の子どもは、人生の相談だとか自分の悩みだとかを、延々と話したい訳ではない。わずか数分、顔を見て話したいことをたっぷり話させてあげさえすれば、子どもはそれで満足してくれる。自分の時間の数分間、子どもにしっかり顔を向け見てあげること、そこから子どもたちは沢山の愛情を受け取ってくれるのではなかろうか。

再び感染拡大の日々を迎えている。子どもたちの顔を見ると、どんな表情をしているかということよりも「マスクをしているか」を気にしてしまう。マスク着用に気を向けるより、もっと子どもの動作やマスク越しの表情を見てあげたい。見ること、それが愛情の第一歩だから!