『申し訳ない』はもう良いよ!

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ウクライナから三才の娘さんを連れて避難してきた女性、警察官の夫をウクライナに残していることもあり、「申し訳ない、早く(戦争が終わって)帰りたい」と悲痛な表情で語っておられた。命を脅かされている多くの同胞たちに対する「申し訳なさ」が、避難して自らは安全な場所にいるということが「罪悪感」としてあるからこそ、「申し訳ない」という言葉になってしまうのだろう。ロシアがウクライナに侵攻を開始した時、私の心にも同じような思いがあった。「いかなる理由があろうとも、人の命を奪う戦争という手段を受け入れることはできない」と強く思うのだが、その私自身は平和な日常を送っている。ウクライナの人々の苦悩に対して何も寄り添うことができないもどかしさも相まって、平穏な日常を送ることに「申し訳なさ」を感じたからである。

復活したイエスは、ガリラヤ湖に戻っていた弟子たちに現れ共に食事をなさった。その後ペトロに対して「この人たち以上に、わたしを愛しているか」とお尋ねになった、しかも三度も。ペトロが大祭司の屋敷の中で、弟子だと指摘されて「違う」と三度否認したからである。尋ねられる度にペトロは「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と応えるが、ペトロの心には自責の念で一杯であったことだろう。「弟子ではないと言ってしまったけれど、あなたを信じてずっと従ってきたことをご存じですよね、今は一瞬でも弟子ではなかったと言ってしまったことを申し訳なく思っているのです。」とでも言いたかったことだろう。申し訳ないと罪を感じ、自分を責めているペトロの姿を思い浮かべることは容易である。イエスの問いは、彼の罪を暴き、彼を責めようとしているのだろうか。私は違うと思う。理由は、ペトロの応えの後に、イエスは「私の羊を飼いなさい」と言っておられるからであり、それは「知らないと言ったことはもう良いよ。今はあなたに託されたことに心を向けなさい」ということに他ならないからである。もしかしたら、最初に「羊を飼いなさい」と言われた後、ペトロが「はい」と言えば、私見だが三度繰り返されることはなかったのかもしれない。(この段、ヨハネによる福音書21章15節以下参照)

「申し訳ない」と思う気持ちは大切ではあるが、そのことによって罪悪感や自己防衛の気持ちを引きずってしまうことがある私。しかしその「申し訳ない」の気持ちこそ、主が十字架にかけてくださったことを思い起こすなら、十字架を見上げて「もういいよ、あなたの羊を飼う(あなたのなすべきことをする)ことにこそ目を向けて生きていきなさ」という言葉が聞こえてくるはずである。

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