信ずれば、すべてのものが温かい

第五章 岐路に立ち選択するとき

人生は選択の結果である。人生の結果に影響するのは、環境と出来事、そして生まれつきの素質であり、加えて自己の決断がある。環境と出来事と素質は変えることができないが、しかしそれだけで人生が決定されるわけではない。人生を最終的に決定するのは自己の決断である。その決断は、環境や出来事や生まれつきの素質にもかかわらず、それらを超えて人生を決定する。その決断を促すものはなにか。それを発見した者こそが人生に勝利する。

この方においては「然り」だけが実現したのです。(コリントの信徒への手紙二、 1章19節)

【解 釈】 パウロがこの言葉をコリントの教会への手紙に認めたのは、いったん行くと言いながら、訪間を延期したことで約束破りの二枚舌という誤解が生じたからであった。

パウロが訪問を延期したのは、訪問してもけっして良い結果は得られない、だからむしろ行かないほうが相手のためであるとの心づかいからであった。しかし、このパウロの深い心づかいは相手に通じることなく、パウロは悪者にされたのである。

真意が通じず、結果が否定されたままになってしまうことはあり得ることである。また、人が決断して得た物事の結果が、意に反して否定的であったり、望まぬ結果を生んだりすることも珍しいことではない。場合によっては、あいまいなままに終わってしまうこともある。しかし、世のなかで起こることは、その結果がたとえ自分にとって好都合とはならないにせよ、それが「然り」となる結果を手にできると信じる者の強さはキリストにあると、パウロは訴えているのである。

キリストは、事のなりゆきがどうであれ、最後を「然り」と結んでくださるからである。

 

【こころ】 「目をささげ、手足をささげクリスマス」
ホトトギス派のキリスト者俳人、玉木愛子さんの句です。この人は16歳のときハンセン病と分かり、熊本の回春病院を経て、瀬戸内海にある長島愛生園で長く過ごし、 1969年に82歳で没しました。この句が意味することは、彼女が病のために失った視力や手足は、最初のクリスマスの夜、ベツレヘムの馬小屋で三人の博士たちが幼子イエスに捧げた黄金、乳香、没薬のように、イエスヘの贈り物としたのだということです。

失ったのではないのです。クリスマス・プレゼントとしてイエスに捧げたとは、恐るべき積極性です。この積極性は、こうした境遇に生きる人に当然予想される厳しさをいささかも感じさせません。むしろ一種のユーモアさえ感じます。

同じニュアンスを漂わせた句に、「信ずれば天地のもの暖かし」というのがあります。望まずして生きねばならぬ身を置く天地は、この人にとって過酷なはずです。しかし、信仰をもって眺める天地は暖かいというのです。

玉木愛子さんにとって、本来なら現実は「否」のはずです。しかし彼女の信仰は、現実を「然り」としてとらえることを教えたのです。そのとらえざまは、「否」の現実をユーモアや暖かさをもって包む「然り」にほかなりません。どのような事態であれ、最後は「然り」となることを信じ切る者のユーモアは、明日を生きる勇気の源です。

賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より

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