悲しんでよいのです、嘆いてよいのです

第二章 人の悲しみを癒すとき

人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。

悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。(ヤコプの手紙4章9節)

【解 釈】
涙や嘆きはあってならぬこと、笑いや喜びだけがなくてならぬこととは聖書は言っていない。泣きなさいと言う。嘆きなさいと言う。そして笑いを悲しみに、喜びを愁いに変えよと言うのである。私たちの常識とはまるで反対ではないかと不思議に思う言葉である。

私たちは悲しみはあってはならないと思い、愁いより笑顔があるのが望ましく思う。しかし聖書は、むしろ正直であることを求めている。悲しいならば泣けばよい、嘆きたければ愚痴をこぼすがよいと言う。偽りの喜びや笑いよりむしろ悲しみと愁いを主役にせよと言っているのである。悲しむこと、嘆くこと、そして涙を流すことを避けてはならない。そこにこそ真実がある。

【こころ】
「じゃ、先生、教会に来るとき、情けない顔をしていても、暗い気持ちを
抱えて来てもいいんですね。私は今まで教会の門をくぐるとき、気持ちをキッと切り替えて入ってきていたんです。教会の看板には『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう』と書かれていますが、疲れ顔や、へとへとのまま入っちゃいけないような気がして……。だから教会に入るときは、笑顔を見せるんです」
とある信徒の方が言われます。先の聖書の箇所を引き合いに出して話をした後のことでした。

私たちは信仰をもてば、感謝と喜びに溢れて活き活きと活動するのが当然だと思ってきました。「悲しみ、嘆き、泣きなさい」とは、信仰には喜び、感謝、笑いがなくてはならないと思っている私たちにとっては、エーツと言わせるものがあります。その上さらに「笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」と言うのですから、ますます驚きです。

ここには、私たちの日常がいつも明るくて健康な面だけではないことを知る者の言葉があります。いやなこと、つらいことがいろいろあるのが実生活というものでしょう。「世のなかがいやになればなるほど、キリストを見る」という、あるドイツ人の牧師の言葉を思い出します。世のなかがいやになるとき、それは疲れたときでしょう。重荷を負っているときかもしれません。そのような私たちに、キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われます。世のなかがいやになるときは、キリストのところに行くチャンスだということです。そんなときは、きっと情けない顔をしていたり、うつむき加減で歩いているかもしれません。しかし、私たちがいやになっているところこそ、キリストにとっての働き場にほかなりません。だから「笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」と言われるのです。悲しみや愁いは、キリストが働いてくださるところだからです。そして、そこにしかキリストはおいでになりません。

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