絶望の果てから新しい世界を見る

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第二章 人の悲しみを癒すとき

人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。

「足がよろめく」とわたしが言ったとき、主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。 (詩編94編18節)

【解 釈】
この詩編の作者は、人に襲いかかる災いや悪に対して立ち向かうことの難しさを嘆いているのである。周囲の世界は、あたかも威嚇する敵のように人を追いつめ、これでもかこれでもかと痛めつけてくる。二重三重の苦しみが重なることもある。もはや打つ手もなく、ただ呆然と立ち尽くしている。そこには絶望があるのみである。絶望に至るまでは、なにか打つ手を探していたり、手助けを求めたりしていた。しかし今や、おのれの在立そのものが危うくなり、足元から音を立てて崩れ落ちるかのようである。「『足がよろめく』とわたしが言ったとき」とは、すべて打つ手を絶たれ、拠って立つ存在の基盤さえもが危うくなった心境を歌ったのである。

しかし神は、絶望そのものを希望に変換するのでなく、絶望の最中にある作者の存在そのものを支えてくださった。存在が支えられるとは、一切の打つ手を絶たれ、行き詰まったときの究極の助けである。これ以上の助けがあろうか。

【こころ】
宗教改革者ルターは「絶望ですら慰められている」と言います。不思議な言葉ですが、これほど慰めに満ちた言葉をほかに知りません。絶望とは、望みが絶たれた状態と言ってよいでしょうから、もはやすべて打つ手がない状態です。こんなとき、どうしてよいか分かりません。ただうろうろするだけです。重たい暗雲が頭の上を覆うかのようで、鬱々として気が晴れることはありません。これから先、なにかに望みを託そうとしても、なにひとつ頼りになるものは見つかりません。「足がよろめく」とは、 そのようなときのことでしょう。

一切の望みはもはや絶たれ、なす術もなく、ただ立ちすくむとき、「まだなにかできる」という言葉こそ、しらじらしいものはありません。なおそこに慰めがあるとすれば、絶望の最中にいるその人の存在そのものが支えられているときです。詩編の作者は、絶望の果て、ついに足元からよろよろと崩れ落ちようとするその瞬間、崩れ落ちる己の存在が大きな慈しみに支えられていることに気づいたのです。それは絶望の極みに立ってはじめて分かることかもしれません。そして「絶望ですら慰められている」という言葉は、絶望しきったところに新しい世界があることを教えています。

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