いつでも待っているよ

詩編60:1-14

60:1 【指揮者によって。「ゆり」に合わせて。定め。ミクタム。ダビデの詩。教え。
60:2 ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき。】
60:3 神よ、あなたは我らを突き放し
怒って我らを散らされた。どうか我らを立ち帰らせてください。
60:4 あなたは大地を揺るがせ、打ち砕かれた。どうか砕かれたところを癒してください
大地は動揺しています。
60:5 あなたは御自分の民に辛苦を思い知らせ
よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた。
60:6 あなたを畏れる人に対してそれを警告とし
真理を前にして
その警告を受け入れるようにされた。〔セラ
60:7 あなたの愛する人々が助け出されるように
右の御手でお救いください。
それを我らへの答えとしてください。

60:8 神は聖所から宣言された。
「わたしは喜び勇んでシケムを分配しよう。スコトの野を測量しよう。
60:9 ギレアドはわたしのもの
マナセもわたしのもの
エフライムはわたしの頭の兜
ユダはわたしの采配
60:10 モアブはわたしのたらい。
エドムにわたしの履物を投げ
ペリシテにわたしの叫びを響かせよう。」

60:11 包囲された町に
誰がわたしを導いてくれるのか。
エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。
60:12 神よ、あなたは我らを突き放されたのか。
神よ、あなたは
我らと共に出陣してくださらないのか。

60:13 どうか我らを助け、敵からお救いください。
人間の与える救いはむなしいものです。
60:14 神と共に我らは力を振るいます。
神が敵を踏みにじってくださいます。

  

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
温度の変化が激しいこの季節、自然や自分を取り巻くたくさんの変化を私たちは受け止めてます。
変化の中を生きている自分が、
自分で予想もできなかった変化に出会うとき私たちは戸惑い悩んだりします。
しかし、その中にあっても変わることのない神様、
あなたからの愛が私たち一人ひとりを包んで下さっていることを思い起こして、
生きることができますように。
日々の糧と毎日の心の落ち着きを神様、あなたがお支え下さい。

これから語られますみ言、この語る者を通して
ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈りいたします。

アーメン。

神よ、あなたは我らを突き放し怒って我らを散らされた。どうか我らを立ち帰らせてください。(詩編603)

「……どうか我らを立ち帰らせてください。」と詩人は詩いはじめます。「あなたにとって帰るところはどこですか?」と聞かれて、皆さんはどこを思い浮かべるでしょうか。昔の事を思い出してふるさとを思い浮かべたり、今いる家を思い浮かべたり様々かもしれません。誰かが「お帰り」と言葉をかけてくれるところ、それが自分の帰る場所なんじゃないかなっと私は思ったりもします。

立ち帰るという言葉を思うとき、それは昔を思い出す場所というようなイメージがわくのは私だけでしょうか。昔、お母さんが家で私が帰るのを迎えてくれたな、と思い出す人もおられるでしょう。個人的なことを言うと、私は物心がついた頃から両親が働いていたので、いわゆる「鍵っ子」。帰っても誰も待っていてくれている人がいなくて、たまに「お帰り」と自分に言ってあげることがありました。

 でも私たちの意識の中にないとしても、すべての一人ひとりに帰る場所はあります。一人ひとりが思い出せなくても、待っていて下さる方がおられます。その方はすべての方に「お帰り」と言って下さいます。それは神様です。なぜなら、私たちが帰る場所、それは神様の御許(みもと)だからです。帰る場所があるとき、人は出発できます。歩き出す勇気が与えられます。「どうか我らを立ち帰らせてください。」と詩人は祈ります。あなたには帰る場所があります。
神様がいつでも「お帰り」とあなたを抱きしめて下さいます。

関連記事