真実のために味わうほんとうの悲しみ

第二章 人の悲しみを癒すとき

人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。

神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。(コリントの信徒への手紙二、 7章10節)

【解 釈】
この使徒パウロの言葉が語られる背景には、かなり複雑な要因がある。かねてよリパウロは、アテネに近い町コリントにある教会のことをたいへん心配していた。町自体は商業の盛んなところで活気に溢れており、教会自体、人も財もきわめて豊富であった。しかし、人が集まるところには、またいろいろな問題も起こる。宗教的な問題もあったし、人種問題もあった。とくにコリントの教会の問題は、扇動分子による分派騒動であった。

パウロはこれについて非常に心配して、かなり強く叱責する手紙を教会に書いたのである。教会を叱るなどということは滅多にないことで、パウロは、自分の書いた強い調子の手紙がきっと彼らに悲しい思いをさせたにちがいないと思っていた。なぜなら、パウロの書いた手紙を読む人々のなかには、分派活動などと関係なく、ひたすら教会に熱心な人も少なからずいたわけで、いわば無実の人まで含めて叱責することになるからであつた。しかし偽りを捨て、真実に生きるためには、ときには悲しい思いも必要なことがある。コリントの教会は、謙遜にこれを受けとめた。パウロはこの様子を見て、コリントの教会は神の御心に適う悲しみを経験したのであると慰めているのである。

【こころ】
それほど長くは生きられないと医者から宣告された子どもをもったお母さんが、あるとき、こう言います。
「私は、長くはこの世に生きていないこの子を叱らなければならないときがいちばん悲しい。でも、この子が社会で生きるためには叱らねばならないときもあるのです。叱るとこの子は、私の言うことを素直に守ってくれるので、それがかえって悲しいのです」

叱りたくはない母親の叱責に耐えて、それに素直に従うわが子を、できることなら叱らずにいて、そう長くはない命をそっと大事に見守ってやりたい、そのような母親の気持ちを痛いほど感じる言葉でした。しかし、たとえ長くはない命であっても、人間として生きるためにはどうしても守らなければならないことがあるのです。そのためには、叱らなければならないこともあります。叱るほうも悲しいことだし、叱られるほうだって悲しいに決まっています。しかしこの悲しみは、なくてはならない悲しみです。悲しみには、このような悲しみもあるのです。真実のためには、どうしても悲しい思いをしなければならないこともあるにちがいありません。

もしそのような悲しみを経験するとすれば、それこそ「神の御心に適う悲しみ」です。

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