神に捧げるもの

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祈り)天の神様、新しい目覚めを私たち一人一人に与えて下さりありがとうございます。
「目覚めること」や「眠りにつくこと」これらは当たり前のようで本当は当たり前ではなく、
神様あなたから一人一人へと与えられる恵みです。
ぐっすりと眠れないことやなかなか目覚めることができない、そのような経験を通して、
いつも当たり前のように与えられている神様の恵みに気付く時があります。
気付くどころか、失ったものへの怒りや悲しみで心がいっぱいになることもあります。
感謝いっぱいで祈る時も、怒りや悲しみをぶつけることでしか神様に祈れない時も、神様はいつも私たちの祈りを聴いて下さいます。
どんな祈りも神様、あなたに心を向けて捧げることができますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと、
そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン

【参照聖書箇所 ホセア書6章4〜6節】
わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。(6節)

『わたしの喜ぶのは 愛であっていけにえではない』とホセア6章6節で語られます。
同じような言葉をイエス様がお語りになられたのをご存知ですか?それは「マタイによる福音書9章13節」にあります。どのような意味なのでしょうか。

「えっ、うそ。神様は何の条件もつけないの?」
私たちは一般的に「何かをして、これをしてもらう」というように「自分が希望するとき、相手の要求に対してできるだけ果たしてからしてもらう」というような決まりを当たり前のように思うことが多いのではないでしょうか。例えばお金を払うから物がもらえるとか、成績が良かったから試験に合格するとか。目に見える形で努力をしないと手に入らない物は、目に見える形で努力すれば手に入る物です。しかし、それらは引き換えることのできるものを持っている人と持っていない人に簡単に分けられてしまうような気がします。持っている人は持っていない人を差別してしまったりするかもしれません。

神様は違います。何かと引き換えに希望をかなえて下さるのではなく、すべての人が持っているものを喜ばれます。それはすべての人に神様が与えている「愛」です。この「愛」を思い起こすことを喜ばれます。何か条件をつけないといけないような時でも、神様はあなたに与えられている「愛」を思い起こし、神様へ差し出すことを喜ばれるのです。

神様へ捧げられたあなたからの愛は減ってしまうものではなく、そしてあなたの努力を要求するものではありません。ただあなたが神様に愛を捧げれば捧げるほど豊かにされます。愛はあなたの思いと一緒に神様へと捧げられ、神様によって用いられます。愛を神様へ捧げてしまったら、愛があなたから無くなってしまうのではありません。あなたの思いや願いをも神様が受け取り、あなたが捧げた愛と一緒に必要なところへと神様が運んでくれるのです。

『わたしの喜ぶのは 愛であっていけにえではない。。。』神様に愛を捧げるあなたと共に神様は愛を運ばれます。私の愛ってなんだろう。そのような心配はいりません。だってあなたを大切にされておられる神様に捧げるのですから。

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