今日を過こせば明日も生きられる
人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。
主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます。( 詩編5編4節)
【解 釈】
この詩編の作者はさまざまな苦しみをもっていた。苦悩の最中、夜はもっとも苦痛であったにちがいない。眠られぬ夜を過ごし、朝が来ると彼は待ちきれぬように祈る。彼の祈りは、「わたしの声を聞いてください」とあるように、ときには嘆きであり、愚痴であり、不満であり、怒りであった。彼にとって、信仰の世界はきれいごとではない。信仰の世界は、すべてを隠すことなく、ありのままにさらけ出すことであった。いわば、わがままである。彼にとって、そのようなわがままを許してくださる方が神であった。
毎朝、彼は神にわがままを言うのである。なんと素晴らしい信仰であろう。もし信仰の世界が、美しい祈りの言葉や感謝や賛美の声だけでできあがっているとすれば、苦悩のなかにいて眠れぬ夜を過ごす者は、どこに行って本音を打ち明けることができるであろうか。本音を打ち明けることができる世界を毎朝もつことのできる素晴らしさを、この詩編作者は教えているのである。
【こころ】
「朝起きて最初に思うことが、その人の本音である」と言われます。朝起きて、感謝や希望に満ちた思いがあたかも泉のように湧き出る人はなんと幸いなことで しょう。でも、悲しみや嘆きの最中にあるとき、朝はつらい一日の始まりです。重たい頭をもたげ、今日一日の暮らしを思うのです。一日が過ぎ、夜また床につく時、明日の目覚めがないように願うことだってあるにちがいありません。そのようなとき、感謝とか希望とかは無縁の言葉としか思えません。
しかしこの聖書の言葉は、私たちに「嘆きなさい。自分を責めなさい。愚痴をこぼしなさい。不平を言いなさい。怒ってもかまわない」と言っているのです。それが本音だからです。毎朝、本音を聞いてくださる方と差し向かいになることができるとしたら、 今日を辛うじてでも過ごすことができるでしょう。今日を生きることができれば、明日も生きることができるにちがいないのです。だから「朝ごとに」なのです。