病気の自分を支える強さ

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第二章 人の悲しみを癒すとき

人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。

死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。(詩編23編4節)

【解 釈】
よく知られた詩編である。作者は、脅かす敵を目前にして、自らはまるで力のない羊のようであるが、力強い羊飼いによって守られていると告白する。自分をいささかも強いなどと思っていない。「死の陰の谷」とは暗黒を意味しており、生死の境をさまようような危機にさらされているという意味である。しかし羊自身は力なく弱いが、羊飼いのもつ鞭や杖によって安全に導かれている。作者はおそらく幾度となく死線をさまようほどの危機に遭過し、自分自身の弱さをいやというほど見せつけられたのであろう。しかし作者は、堅く信頼することができるものがあることを信じて感謝している。

【こころ】
あるひとりの婦人のことを思い出します。あるとき、お見舞いに行きますと、
「先生は私のところにおいでになると、病気のときもお恵みのときであるとお祈りなさいますが、嘘でよいから、信仰があれば病気が治ると祈ってくださいませんか」
と言われるのです。すでに病気はそうとうに進行し、ご本人も末期であることを十分に知ってのことでありました。そう言ったあと、つけ加えてこう言われたのです。
「でも先生、病気のときもお恵みのときというのがほんとうですね」
自分は信仰者だから、信仰があれば病気は治ると信じたいのです。しかし、もはや病魔は体を蝕んでおり、癒される見込みはありません。そうなれば、信仰があれば治るというのは嘘になります。治りたい、しかし治らない、その葛藤する自分の心を信仰を通して見るなら、病気のときもお恵みのときであると信じられること、それ以外に真実はないということをよく知った者の言葉でした。それからしばらくして婦人は安らかに天に召されたのでした。生死の境もまた恵みであると信じる者の強さを知らされた出来事でした。

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