わたしの血によって

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エフェソ2:11-13
​ 2:11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。 2:12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。 2:13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
  

 

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
お一人お一人の心と身体の健康を支えて下さい。
私たちはのどの渇きを覚える季節もあれば、
季節に関係なく心のかわきも覚えるときがあります。
のどの渇きは自分や誰かがすぐに気付いて、
身体の中に水分を補給しなければ生きていくことができなくなります。
同じように、心が渇くことがあっても私たちはすぐに気付くことができなかったり、
他の誰かに自分の心の渇きを悟られないようにさえしてしまいます。
しかし神様、あなたは私たち一人一人が生きられるように、心の渇きを満たして下さいます。
たとえ、私自身が心の渇きに気付いていなかったとしても、
神様がいつも満たして下さっています。
神様ありがとうございます。
全てを神様、あなたに委ねる私になりますように。

これから語られますみ言、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。

このお祈りを、主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

 

『しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。』エフェソ2:13

 

おはようございます。
今、ご一緒にお読み頂いた聖書の箇所 「エフェソ2:11-13」において「異邦人」という言葉が出てきます。
「ん?何だか聞き慣れない言葉だし、ちょっと差別的だな」と私は感じましたが、皆さんはどうでしょうか?
この言葉は皆さんとルーテル教会の礼拝の中で歌っている「ヌンクディミティス」の中にも出てきます。
一昔前に流行った歌謡曲にも「異邦人」という歌がありました。
このようにキリスト教用語と言われる聖書やいろんな文章には、
わかるようであまりわからない言葉がよく使われることがあります。
「異邦人」という言葉もそのような言葉の一つなのかもしれません。
「異邦人」は文字通り読めば「外国人」ということですが、
聖書では「異教徒」という意味にも使っています。
特にユダヤ教の教えの中には「割礼」を受けないというだけで、
その人を「異邦人」=「教えを守らない人」として差別をしました。
宗教の決まり事だけで人を判断してしまうのなら、
いろいろな事情でその枠からはみだしてしまう人はたくさんいたのではないでしょうか。
ましてや私たち人間の目に見えないところまで、誰が人を差別することができるのでしょうか。
神様は全てをご存知です。
イエス様を通して全てを許されておられます。
だから全ての人を差別されることなく、全ての一人一人を大切にされておられます。
今、ご一緒にお読みした聖書の箇所の最後に語られているように
「あなたがたはキリストの血によってキリストに近い者になったのです」と
私たちが行いによってキリストへと近づくのではなく、
もうすでにキリストはあなたの近くにいらして、救いの手を差し伸ばれておられます。
差し伸べられたキリストの手を握るのはあなたです。

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