「リリス」って聖書に出てくる?『エヴァ』ではすごく重要キャラだったけど…

ルーテルアワーのルターさん

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るたー

アニメやゲームのキャラに込められた名前には、
神との関係、人の罪、希望、贖い、終末、そして愛が詰まっておる。
それを知ると、物語の見え方もまるで変わってくるぞい。
聖書は決して古びた本ではない。
現代の創作にも深く影響を与えておる、「生きた言葉」なのじゃ。

実はのう、リリス(Lilith)は正典の聖書にははっきりとは登場せん。
ただし、イザヤ書34:14に「夜の怪物」と訳される存在があって、それが後にユダヤ教の伝承でリリスと結びついたんじゃ。
『エヴァンゲリオン』では、リリスは「アダムとは異なるもう一つの人類の起源」として登場する。
まるで“失われたもの”“禁断のもの”の象徴じゃな。なかなか深い演出じゃ。




ミカエルって、天使の中でもすごく強いの?

ルーテルアワーのルターさん

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るたー

アニメやゲームのキャラに込められた名前には、
神との関係、人の罪、希望、贖い、終末、そして愛が詰まっておる。
それを知ると、物語の見え方もまるで変わってくるぞい。
聖書は決して古びた本ではない。
現代の創作にも深く影響を与えておる、「生きた言葉」なのじゃ。

うむ、そうじゃ!ミカエル(Michael)は“神のような者”という意味の名を持つ天使で、
天の軍勢の総司令官のような存在じゃ(黙示録12:7など)。
『エヴァンゲリオン』や『女神転生』などでは、「最強の戦う天使」としてよく登場するぞ。
正義のために戦う者として、多くの作品でヒーロー的に描かれておる。
わしもミカエルのように戦うおじさんになりたいもんじゃの~。




わたしはあなたを知っている

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
そして、心をあなたに向けて、み言から聴けるこの時を感謝いたします。
私たちは神様、あなたからたくさんのものを与えられています。
「これは神様からいただいているんだよ」とすべてを言い切ることができないないほど、
神様、あなたから私たちはたくさんのものを与えられています。
それらの一つひとつは、いつもあって当たり前に思っていたり、気づかなかったりします。
しかし、それら一つひとつを受ける時、不安に思ったり不思議に感じたりせずに、
私たちは安心して自然に受け取ってます。
それは神様から与えられるからです。
いつも「神様ありがとう」がたくさん溢れますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、
ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ねいたします。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前を通してお祈りいたします。

アーメン。

【参照聖書箇所:ヨハネによる福音書10章22〜30節】ヨハネ10:22-30

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。(27節)

皆さんはこんな光景を見たことありませんか?少し混んでいるスーパーやデパートの売り場で、迷子になって「ママー、ママー」と泣き叫んでいる子どもを。その声をしばらくハラハラしながら聞いていると「なーに、ここよ。」と、その子のママらしき声がすると、にわかに泣いていたその子の顔が明るくなって泣き止み、今度は大声で「ママどこー?」と私からは誰がどこから声を出しているのかさえわからないのに、ママの声を聞いただけで安心する小さな子どもがいる光景です。見えなくても分かり合える親子の関係は、いつも毎日を共に過ごす信頼から生まれてくるのでしょう。

今、ご一緒にお読みしました聖書の箇所の中でもイエス様は言われます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」と。イエス様はご自分を羊飼いにたとえられ、私たち人間を羊にたとえられることが多いです。それだけ当時の信頼関係をあらわすたとえとしては解りやすいたとえだったのでしょう。決して人間は家畜のようだと言われるのではなくて、人間と神様との関係は羊と羊飼いとの信頼深い関係のようだとイエス様は言われるのです。それはまるで迷子になった子どもが親の声を聞くだけで、親はその子の声を聞くだけで、お互いが安心するような関係と似ていると思います。

私たち一人ひとりも同じように神様がいつも共におられます。耳で聞こえる声だけではなく、目で見たり、心で感じたり、手で触れたり。神様からの声はいつも私たちのそばにあって、片時も離れません。その一つひとつに神様を感じ、感謝しつつ歩みたいと思います。




あなたはかけがえのない存在

祈り)
天の神様、新しい目覚めを与えて下さりありがとうございます。
今朝与えられた目覚め、新しい命、神様あなたから与えられているものは数えきれません。
あいつにはこれだけ、あの人にはあれだけ、というように、
神様はえこひいきをしたり、差別をすることなく、
全ての一人ひとりに分け隔てすることなく与えてくださいます。
その一つ一つが私たちには当たり前に感じたり、失った物ばかりに気を取られてしまったり、
その日や自分の置かれた状況によっていろいろな感情がわいてきたり、不平不満を感じたりしますが、
神様、あなたから与えられているものは、私たち一人ひとりに満ちています。
あなたからの愛を、今日も感謝できる私たちでありますように。

これから語られますみ言葉、この語る者を通して、
ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

 

【参照聖書箇所:マタイによる福音書21章12〜17節】

わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。(13節)

 

今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所に語られているイエス様のお姿は、いつも聖書に語られている温和でやさしいイエス様のお姿とは全く違い、激しく怒り悲しむ姿が語られています。しかし、イエス様は決して感情的なヒステリーを起こして、周りの人々に当たり散らしたのではありませんでした。

本当に大切なものをめちゃくちゃにされたり、本当に使ってほしいように使ってもらえなかった時や、理解してもらえなかった時、私たちはどうするでしょう。「こんな扱いは間違っているのに、何でわかってくれないんだ」と怒ったり悲しんだり私たちはします。イエス様もそうだったのだと思います。そして、それ以上に「そのまま違う方向に使い続けたらあなた方は滅びてしまう。ちゃんと神様を見なさい」と、真実から離れようとしてる人々に、怒りと悲しみを覚えられたことでしょう。

私たち一人ひとりも、心に神様へと向かう神殿を持っています。しかし、いつの間にか価値観が偏ってしまったり、神様を見失ってしまう時もあります。でもそのようになっても、イエス様が一人一人の神殿を建て直して下さいます。安心してイエス様に心をあずけることができます。私たちが生きている生活の中には、社会的な価値観や比較が様々にあります。自分の存在なんて価値がないと孤独になったりもします。

しかし、そのような悲しみで真っ暗な心にでも、必ずイエス様は光を入れて、心の神殿を建て直して下さいます。何度でも「あなたはかけがえのない存在なんだよ」とやさしくそして力強く。




ルシファーって“悪魔”じゃないの?でもゲームだとカッコいいよね?

ルーテルアワーのルターさん

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るたー

『女神転生』シリーズに出ておる、ルシファー。アニメやゲームのキャラに込められた名前には、
神との関係、人の罪、希望、贖い、終末、そして愛が詰まっておる。
それを知ると、物語の見え方もまるで変わってくるぞい。
聖書は決して古びた本ではない。
現代の創作にも深く影響を与えておる、「生きた言葉」なのじゃ。

ええ質問じゃ!
ルシファー(Lucifer)とは、イザヤ書14章12節に出てくる「明けの明星、暁の子」と訳される存在。
堕天使、つまり神に反逆して堕ちた天使の象徴として多く語られるようになったのじゃ。
『女神転生』シリーズでは、カリスマ性のある“自由の象徴”のように描かれることもあるのう。
聖書では「高ぶりは滅びに先立つ」と言われとるが(箴言16:18)、彼の姿には人間の“自由と傲慢”のせめぎ合いが見えてくるのう。




大好きだよ

祈り)

天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
私たちは神様、あなたにたくさんのもの、たくさんのこと、たくさんの恵みを与えられています。
その一つ一つの恵みは始めからある、当たり前の物事であるかのように過ごしています。
ふと一つ失ってしまう時、痛みや悲しみを伴い、神様に思いをぶつけます。
「どうして?」「なぜ?」と。
しかし、神様はそのような私たち一人一人のどんな心でも「ありがとう」と受け止めて下さいます。
どんなに醜く見せたくないと思うような心でも、受け止めて下さる神様に心を向けられる私でありますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して今、
み言から聴くお一人おひとりへ、そしてお一人おひとりの心にあるお一人おひとりへと
神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのみ名によって、み前にお捧げ致します。

アーメン

【参照聖書箇所:マルコによる福音書14章27〜31節】

たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。(31節)

「ねぇ、本当?」そのように言いたくなるような言葉が弟子の口から語られます。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』(マルコ14:31)でも、イエス様は問いません。弟子のその時の気持ちを大切に思われるからです。ただ、静かに弟子がその後どのような態度を取り、どのようなことが起こるかを語られます。その結末を語られるからイエス様はすごいな、と私たちは思うことだけには留まらず、それでも弟子たちの「本気」を受け止め、それでも逃げてしまう「ありのままの弱さ」を愛されるイエス様が、一人ひとりを大切にされている心の深さを感じることができるのではないでしょうか。弟子の一人として、聖書の中ではペトロさんの言葉や行いとして語られますが、決してペトロさん一人の言葉ではありません。

私は聖書からこの言葉を聴いた時「あっ私の本気だ」と思わされ、イエス様から逃げてしまう現実があるな、と思うと同時に、それでもイエス様に赦されて生かされている今があることを思いました。そうです、今聖書から語られる弟子の言葉は、あなたの言葉でもあります。あなたもイエス様を本気で信じ、本気でイエス様から逃げます。それでもイエス様は、あなたを信じ、あなたを大切にされ、あなたにいつも寄り添って下さいます。

どうしてでしょう。それはあなたが大好きだからです。一人ひとりは、神様であるイエス様にとってかけがえのない大切な存在です。だからイエス様は言われます。「大好きなあなた、私はあなたといつも一緒にいる。安心していなさい、大丈夫だから。」




ありがとう私を思い出してくれて

祈り)天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
私たちの心は、何を中心にするかで自分の行動や価値観がまるで違ってきます。
自分が尊敬している方だったり、今必要な物であったり、名誉であったり。
しかし、命と向き合う「時」を与えられる時に、今ある自分が当たり前ではなく、
たくさんの与えられている恵みによって、支えられていることに気付くことがあります。
私たちが気付いても気付かなくても、いつも変わらず私たちに、たくさんの恵みを与えて下さる神様に感謝します。

これから語られますみことば、この語る者を通して今、聖霊のお導きによって、
聖書から聴くお一人おひとりと、皆さんの心にあるお一人おひとりへ、神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様、あなたにお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通して、み前にお捧げ致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:詩編51編3〜11節】

神よ、わたしを憐れんでください(3節)

 「神よ、わたしを憐れんでください」(詩編51:3)と詩人は詩(うた)い出します。しかし、神様は「何をいまさら言ってるんだ、もう私はとっくにあなたを憐れんでるではないか」と怒り、一人一人の祈りにいちいち腹を立てられるのではなく、神様は「私に心を向けてくれて、ありがとう」と一人一人に心を留めて下さいます。このことは人間が神様に造られてからずっと、何千年も何百年も前から、毎日毎日繰り返されてきたのかもしれません。でも、神様は「また、お前か」と言われるのでも、「いい加減、私を休ませてくれ」と言われるのでもなく、「よく私に心を向けてくれた、ありがとう」と、いつもいつも受け入れて下さいます。私たちの日常での多くは、何かを私が要求しなければ、与えても、わかっても、もらえない。そのような関係に慣れてしまっているように思います。

もし、私が要求する前に、私の要求したいことがわかっていた相手から「そのくらい、言わなくてもわかるよ」と言われてしまうことも少なくないような気がします。 でも、神様は違います。あなたが「神様、私を憐れんで下さい。」と言う前に、もうあなたを憐れんで下さっておられます。ただ「神様、私を憐れんで下さい。」と祈ることで、あなたが今も確かに神様によって憐れまれ、大切にされていることに気付くのです。

私は、一人でいろいろ考えていて、悩んでしまっているある時に、「自分が今、何を考えてて何をして、何に悩んでいるかを一つ一つ文章に書いて、それを客観的に見てみなさい。」と言われて、一生懸命やってみたことがあります。文字が自分でうまく書けない今でも、パソコンで文字を打ってみることがあります。祈りも同じではないでしょうか。ただ祈りは、具体的な言葉で 悩みを客観的に自覚するためではなく、 いつも自分を受け入れて下さる方に心を向けるだけで、いつも神様にどんな自分もそのまま大切にされ、憐れまれていることに気付かされるのです。

神様はいつもあなたの祈りに心を傾け「ありがとう。私に心を傾けてくれて」と喜んであなたを受け入れて下さいます。




「アダム」って、『エヴァンゲリオン』の中でどんな意味があるの?

ルーテルアワーのルターさん

https://biblestudy.jp/wp-content/uploads/2014/02/0f2542dcbb1fbec63950a582529599e0.png
るたー

アニメやゲームのキャラに込められた名前には、
神との関係、人の罪、希望、贖い、終末、そして愛が詰まっておる。
それを知ると、物語の見え方もまるで変わってくるぞい。
聖書は決して古びた本ではない。
現代の創作にも深く影響を与えておる、「生きた言葉」なのじゃ。

アダム(Adam)という名前は、聖書の創世記に登場する「最初の人間」なんじゃ。
神が土の塵から形づくり、命の息を吹き込まれて生まれたのがアダムじゃ(創世記2章7節)。
『新世紀エヴァンゲリオン』では、「アダム」は生命の源、そして人類の“原点”として登場するんじゃな。
これは聖書における“創造”というテーマをベースに、「人とは何か」「神とは何か」を問う深い問いじゃ。
エヴァは神学者泣かせの作品じゃが、わしもドキドキしながら見とったぞ。




あなたは今、神様に命を与えられ生きている

祈り)
天の神様,私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
全ての人が、全く同じ思いを抱いて目覚めるわけではありません。
また、他の人からはどう見ても目覚めているようには見えないとしても、神様から与えられる目覚めは一人一人全ての人に与えられます。
神様にとって誰一人として欠くことができない大切な存在だからです。
神様は裏切りません。神様はいつも一人一人と共におられます。
今日もそのようなあなたの愛の眼差しの中、安心して歩めますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:マルコによる福音書12章18〜27節】

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。(27節)

私たちが今生きている世界が、とてもとても大きく感じることもあれば、とても小さく感じることもあります。自分自身の存在もとても大きく見えたり、小さく感じたりします。でも、実際の大きさは変わりません。変わるのは自分の持つ価値観です。その価値観も、自分がいる環境や状況、年齢でも変わっていきます。変化してはいけないものではなく、変化が当たり前の存在として私たちは生きています。よっぽど特殊な能力を持った人以外は、自分が赤ちゃんだった頃のことなんてほとんど覚えていません。

しかし、変わらない存在があります。それは神様です。変わらない神様の国のことを、変化する私たちの世界にあてはめることができるでしょうか?残念ながらそれはできません。しかし、逆に神様が変化する私たちの世界の中に入ることはできます。それは、神様の持たれる価値観であったり、「時」であったり、「愛」であったり、「命」や「存在」です。

今、ご一緒にお読みしました聖書の箇所においても、復活についてこの世の価値観にあてはめようとする人々に、神様からの価値観を、この世での私たちが持つ一般的な価値観にあてはめるは必要ない、ということをイエス様は言われます。神様の国の価値観はもう存在しているからです。ただ、私たちが神様の国の価値観に立ち止まらず通り過ぎてしまっていたり、たいしたことはないと見過ごしてしまうことが多いことなのです。私たち一人一人の存在も、神様からの価値観からみれば神様から大切にされているかけがえのない命の存在です。

ご一緒にお読みした聖書の箇所にある、当時社会的に偉いとされていた人々がこだわり、イエス様に質問したことは本当に大切なことだったのでしょうか。神様から与えられている大切なものを大切と思う価値観を受け止めるやさしさを与えられている今を感謝したいと思います。




信じる

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
毎日、私たちは新しい日々を与えられ、それぞれが心を新たにします。
私たち人間だけではありません。木々や、野の花も命を与えられ輝いています。
たとえ、私たちにはあまり見えなくても土の中に温もりや冷たさを感じます。
一つ一つのことは今、神様、あなたに命を与えられているからこそできることです。
私たちが今、神様、あなたに命を与えられているということを感謝できますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:マルコによる福音書12章1〜12節】

家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。(10-11節)

私たちはいつも、私たち一人一人のために、キリストイエスが十字架の苦難の先の、命への道を歩まれておられることを思い返す日々を共に歩んでます。毎年毎年イースターの前の季節に、イエス様が歩まれた十字架の先へと続く命への道を覚えて礼拝を守りますが、毎年、イエス様が十字架に掛けられて死んで、毎年、三日後に復活されてイースターを迎えるわけではありません。イエス様が十字架に掛けられ、亡くなられ、三日後に復活されたのは一度だけです。しかし、そのことを思い返し祈る私たち一人一人は、イエス様を思い返す度に、その意味が自分に新たに語りかけられるのです。

今、ご一緒にお読みいたしました聖書の箇所では、たとえ話をされるイエス様と、当時社会的に偉いとされていた人たちの、心の中心が全く違っていることがわかり、とても滑稽に思いました。このたとえ話は、偉い人たちには自分たちへの当てつけだと思ったようでしたが、イエス様の心の中心は神様です。そのような小細工は必要ありません。当時偉いとされていた人たちは、神様ではなく群衆を恐れます。

私たちの心の中心が、自己防衛のためや権力やお金に向いてしまうとき、イエス様を忘れてしまいます。イエス様の教えさえも、自分を責めているようにしか受け取れないときもあります。しかし、全ての一人一人を大切にして下さる神様であるイエス様は変わることはありません。私たち一人一人の心を神様に向けていて大丈夫です。