いつもあなたを思って 

祈り)
天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
一人ひとりが命を、神様あなたに与えられて、この世に産まれた誕生日があります。
一人ひとりはたくさんの祈りや思いに支えられて今があります。
90年、100年と生きる人もいれば、生まれてすぐや、1年、2年で亡くなる方もおられます。
しかし、どんなに長くても短くても、神様、あなたからの愛がたくさんの方の祈りや奉仕を通して
今、ここに生かされています。
長さや短さではありません。
私たち一人一人、神様、あなたへの感謝を新たにして、一瞬一瞬を大切に生きて行けますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたへお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:ヨハネによる福音書13章34〜35節】

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさいわたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(34節)

今日も誰かのお誕生日です。私たち一人ひとりは神様によって用いられ続け、そして、これからも生き続けていきます。私が「生きる」と表現しましたように、お一人おひとりを大切にしたいという『思い』が生きているのです。その『思い』の中心になっているのは、今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「ヨハネ13:34、35」の中で、神様が「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われていることの実現です。

「愛」とは「大切にすること」でもあります。一人ひとりが自分自身や他の人を大切にする思いを実現するには、いろいろなかたちがあります。祈りであったり、微笑みであったり、言葉かけであったり様々です。あなたも一人ひとりの祈りや奉仕で今も生かされています。神様は「あなたが勝手に自分が愛だと思っていることをしなさい」とおっしゃっているわけではありません。神様は「わたしがあなたがたを愛したように」と言われています。神様に心を向け、自分も神様に生かされ大切にされている存在であることを覚えるときに、一人ひとりの小さな祈りが神様に用いられます。

『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』ヨハネ13:34




初めからあなたと一緒 

祈り)
天の神様、新しい朝、そして新しい目覚めをありがとうございます。
だんだん季節も変わってきました。朝、布団から出る勇気が必要なときもあったり、布団の中が暑くて飛び起きる時もあります。
また、私たちはいろいろな新しい出来事に出合ったり、初めての人に出会ったり、小さな勇気を必要としたり、
だいぶ思い切った勇気を必要とすることがあります。
しかし、その一つ一つの出会いは神様あなたから与えられる一人ひとりへの恵みです。
たじろぐこともあるでしょう。
それでも神様、あなたからの恵みを受け取る勇気を与えて下さい。

これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

 

【参照聖書箇所:ヨハネによる福音書1章14〜18節】

言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(14節)

今、ご一緒にお読み頂いた聖書の箇所の中で「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエスキリストを通して現れた。」と語られています。「律法」は人間に与えられ、人間一人一人に同じ文、同じ形で与えられております。それこそ偉い律法の学者の説明や解釈が文字通り守られて何年経ってもその意味は変わることがありません。守れる立場も、守れない立場の方があっても、おかまいなしで規則は規則になってしまいました。
しかし、律法も神様から頂いた大切な恵みであることを忘れないようにと、律法を含めた恵みと真理は、イエス様を通して一人一人へと現されています。

人間一人一人置かれた場所というか、環境も違えば時代や国も違います。だから律法という規則は守れない人もおられるかもしれませんが、神様から与えられる真理を守ることはできます。律法として与えられている生きた恵みは、今も生きて働かれている主イエスを通して一人一人に与えられています。律法は古くさい難しい規則では留まらず、今も生きて真理の恵みとして私たち一人一人に語られています。




いつも心の中心に

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
私たち一人ひとりの命はどこから来たのでしょうか?
私たち人間はロボットや機械や物とは違います。
いくら作者が精魂込めて作ったとしても、それは「命が宿っているようだ」と表現されたとしても、
本当に命は宿っておりません。
私たち人間一人ひとりは、神様あなたに命を与えられ生かされています。
同じようにではなく、一人ひとりが違うそれぞれの人生を歩みます。
人と比べるのではなくて、一人ひとりがかけがえのない存在であることを
思い起こして、感謝して歩めますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

 

【参照聖書箇所:詩編51篇3〜4節】

神よ、わたしを憐れんでください御慈しみをもって。深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。(3節)

日本では八百万(やおよろず)の神として、いろんな所に神様がおられるとの昔からの習慣があります。物や自然を敬い、大切にするということはどうでもいいことではなく、私たち人間には必要なことです。ただ、物や自然を敬うということと、それら全てを造られた神に祈るということは違います。私たちは祈るとき、誰に向かって祈るのでしょうか。

自分の願いや悔い改めのときの祈りと、自分以外の人のために祈る時に願う相手は違うという方はおられるでしょうか。また、「憐れんで下さい」と祈らなければ、神様は私やあなたを憐れんでくださらないのでしょうか。罪をぬぐって下さらないのでしょうか。神様はそのようにケチではありませんし、鈍感でもありません。

ただ一つであり真実な神様は、あなたが心を向けて祈る前からあなたを憐れみ、あなたを罪からぬぐって下さっています。ただ、あなたが心を神様に向けないと、神様から自分が今、憐れみを受けており、自分が今、神様から罪をぬぐって頂いていることさえ気付かないのです。

神様が人間にケチでも鈍感でもないように、私たちも神様へ出し惜しみなく素直でありたいと思います。




心をホットにして下さる神様

祈り)
天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
「あれ、こんな所に」と、いつも通って見ているはずの道ばたの景色の中に新しい発見をすることがあります。
「なぜ、今まで気付かなかったのだろう」その理由は様々です。
季節が違っていたり、自分の視線の高さが違っていたり、歩く速度が変わっていたり。
何も変わっていないのに自分だけが変わっていたり、その逆で変わっていく周りの早さについて行けなかったり。
他の人と自分を比べてみたり。
神様、どうかあなたと歩む私に、神様、あなたから与えられる時の中を一歩一歩踏みしめて歩めますように。

これから語られますみことば、この語る者を通してここにおられるお一人お一人へと、
そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと
神様あなたがお語り下さい。
神様あなたに全てをお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:詩編19篇2-5a節】

天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。(2節)

『天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。』(詩編19:2)と聖書で詩人は語ります。「へぇ、神様は大きい物も小さい物も造ったのか、すごいな。」って思われると思います。あなたもですよ。あなたは決して小さいものではありません。神様にとって大空もあなたも同じ大きさなのです。
「たまげたね、世界中を覆っている大空と私が同じ大きさ?どういうこと?」目で見える大きさや小ささで言えば、人間一人と空の広さは全く違います。しかし、大きさというより大切さとでもいうのでしょうか。神様にとって大空も人間一人も同じご自分が造った大切な大切な存在なのです。

たとえば「こんな小さい間違い、黙ってれば誰にも解らないや。えーい、やっちゃえ。」とその時は軽い気持ちでやってしまったことも、無意識という形でいつまでも自分の心に残っていて、ふとした瞬間に思い出して自分を責めてしまったり、思いも寄らない形で出てきたりして大事(おおごと)になったりすることがあります。見た目の大小や重い軽いでは割り切れない大切なことが私たちの周りにはたくさんあります。私たちがそれら一つ一つに気を配り、すべてを大切にすることはできません。しかし、自分の目の前にある一つ一つの物や一人一人の人に、神様への祈りを持ちながら接することはできるのではないでしょうか。

私は昔、歌った歌の歌詞を思い出します。このような歌詞でした。「一人の小さな手 何もできないけど それでも皆の手と手が集まれば何かできる。」私たち一人一人は目で見える形では大空に比べるとちっぽけな存在かもしれませんが、神様にとっては大空と同じように一人一人が大切な存在です。だから、祈りを神様に向けて一人一人が繋がるのなら、天より大きな神様からの愛を証しできるのではないでしょうか。神様はあなたを必要とされています。




かみさまとわたし

祈り)
天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めを与えて下さりありがとうございます。
私たち一人ひとりには名前があります。
「あの人」「この人」と言っていた人が親しい関係になると「〇〇さん」になったり。
でも神様にとって、すべての一人ひとりにははじめから名前があり、
神様にとって私たち一人ひとりは親しい関係にあります。
だから、神様、あなたは一人ひとりを魂の名前で呼んで下さいます。
名前を呼ばれる時、一つの無機質な物体から、
温もりのある一つのかけがえのない命にされます。
私たち一人ひとり、かけがえのない存在として
今、命を与えられ生かされていることを思い起こせますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人おひとりへと、
そしてそれぞれの心にある方々お一人おひとりへと
神様、あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン

【参照聖書箇所:詩編6篇】

主はわたしの祈りを受け入れてくださる(10節)

『主よいつまでなのでしょう。』と詩編6:4で詩人は祈ります。祈りというより心の叫びとでもいうのでしょうか。苦しみや悲しみの中にいるとき、私たちは「これはいつまで続くのだろう」と不安になる時が多いような気がします。何が解決になるのか、どうすればここから解放されるのか、そのようにもどかしく感じる時も多いと思います。「クリスチャンのくせに」そのような声が聴こえてくるような気がします。誰から?他の人からも、そして自分自身からも。もしかしたら自分自身が自分を責める声、それが一番厳しいのかもしれません。「クリスチャンならこのくらいのこと悲しくない、耐えろ」とか「クリスチャンなら苦しむな、いつも笑っていろ」なんて。でも、クリスチャンでも悲しむし、クリスチャンでも笑えないほど苦しいときもあります。クリスチャンという言葉ではなくても大人なんだからとか、子どもなんだからとか。

しかし、今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所の詩編6:10で詩人は祈ってます。『主はわたしの祈りを受け入れてくださる。』主と言うのは神様のことです。神様はあなたの祈りを受け入れて下さいます。神様に祈る人がクリスチャンであっても、クリスチャンでない人であっても、言葉をうまく表現できない人であっても、大人や子どもと呼ばれている人であっても、その人、一人一人の心が神様へと向けられているのなら神様はあなたの祈りを受け入れて下さいます。神様からの心はいつもあなたに向けられているので、あなたの心が神様に向けられる時はいつでも大丈夫です。たとえ、あなたの思いが言葉や声にならないような心の呻きであったとしても神様には聴こえます。なぜなら、祈りを受け入れて下さる神様はあなたの一番近くで心を寄せてあなたと共におられるからです。




アベルってアダムの息子だよね?何で人気キャラになるの?

ルーテルアワーのルターさん

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るたー

アニメやゲームのキャラに込められた名前には、
神との関係、人の罪、希望、贖い、終末、そして愛が詰まっておる。
それを知ると、物語の見え方もまるで変わってくるぞい。
聖書は決して古びた本ではない。
現代の創作にも深く影響を与えておる、「生きた言葉」なのじゃ。

そうじゃ。アベル(Abel)はアダムとエバ(イブ)の次男で、神にささげ物を捧げて受け入れられた者。それを妬んだ兄カインに殺されたという人物じゃ(創世記4章)。

『聖闘士星矢 天界編』や『FFVII』などでは、純粋で優しい存在、あるいは無垢の象徴として登場する。 “無実の犠牲者”としてのアベルは、とても深いテーマ性を持った名前なんじゃよ。




神様は今もあなたを大切にされています

祈り)
天の神様、新しい目覚めを与えて下さりありがとうございます。
虫の声や空の高さ、雲の形や光の射し方、星の位置などの自然が、私たちに今が与えられていることを静かに囁いてくれます。
また花や木々の香りが、思い出に誘ってくれる時もあります。
私たちは今を生かされているからこそ感じることや、思うこと一つ一つが今を教えてくれるのです。
神様、あなたに与えられているものはなんと多いのでしょうか。
ありがとう」とあなたに感謝できるこの時を感謝します。

これから語られますみことば、この語る者を通して、
ここにおられるお一人お一人へと、そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと、
神様あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン

 

【参照聖書箇所:創世記1章26〜2章4a節】

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。(31節)

「こんな私は生きてていいのだろうか。」そのような問いが溢れてくる時があるのは私だけでしょうか。あれもできない、これもできなくなった、何も役に立たない私なんかがどうして生きているんだろう、と。私の個人的なことを言えば、だんだん自分の足での歩行が困難になり、今は車椅子の助けを必要とし、言葉も早く話せなくなり、何度も言い直さないと解ってもらえないもどかしさを感じることも増えて、書字も困難になって…。できなくなっていくことがたくさんあります。でも生きちゃってる、と思うと辛くて辛くて。

でもそのような自分にさえも、そっと立ち止まって考えると、今、新しくできるようになったことも実はたくさんあることにも気付きます。失っていくことばかりに心が捕われてしまうと、どんどん自分が惨めになるかもしれませんが、与えられていたことがたくさんあるから多くを失うのだと思う時や、今新たにできることが与えられていると思うと、今あるたくさんの与えられているものに感謝できます。

神様は一人一人すべての人も造られました。「私が立派に造ったのだから勝手に育ちなさい。」と言って放っておかれるわけではありません。「あなたは私にとってかけがえのない大切な存在だよ。」と言われて今もずっとあなたを愛されており、共におられるのです。あなたの存在も、そして神様に造られたものすべては神様にとって今も極めて良いものなのです。たとえあなた自身が自分を否定したくなるほど惨めな時でも、誰にも存在を認めてもらえない時でも神様にとってあなたは大切な大切な存在です。神様が造られたすべて一つ一つを大切にされていることを知っている私たちだからこそ、神様はすべてを支え、すべてに愛の心を配るようにとすべてを人に委ねられたのです。

私たちは今を生かされています。私たち一人一人を大切にして下さる神様と共に今、生きています。

 




あなたのために

祈り)天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
私たちにはたくさんの別れがあり、新しい出会いも私たちに与えられます。
それら一つ一つに私たちは悲しみを覚えたり、喜びを感じたり、さまざまな思いをし心動かされます。
しかし、神様あなたとの出会いはたくさんの何かを通して与えられますが、
決して神様、あなたと別れることはありません。
たとえ私自身はうっかりあなたを忘れてしまうことがあっても、神様、あなたは私を忘れないからです。
ありがとうございます。
これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと、そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと
神様あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン

【参照聖書箇所:マルコによる福音書14章43〜55節】

そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。(48節)

「えっ、ユダがわざわざ合図をしなければイエス様ってわからなかったの。」この聖書の箇所を読む度に私は思いました。初めてみことばに出合われる方も「そんなにイエス様っていつもご自分の身を隠されておられたのかしら」「イエス様の正体を暴くためにユダは合図を決めたのかしら」と思う方も少なくないと思います。

でもイエス様は言われます。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、…」と48節、49節と続きます。「聖書の言葉が実現するためである。」とも続けられています。イエス様は逃げも隠れもしていません。

ならばイエス様は何を大切にされておられたのでしょう。それは神様の御心です。「聖書の言葉が実現するためである。」というのは「神様の定められる時を大切にされる」ということでもあります。ユダもイエス様を大切にしてました。しかし、ユダが大切にしていたのは、きっと神様の御心に従われるイエス様ではなく、奇跡を起こされてユダ自身が考える英雄であるイエス様だったのかもしれません。だから、イエス様を捕らえようと構えている人々に合図をするというように自分が合図するまではイエス様に手を触れない、という決まりを作ることでイエス様に「捕らえに来ました。逃げて下さい。」と合図を送ったようにも感じ、もしかしたら自分も祈ったり願う時、ユダと同じことをしてしまっているのかもしれないと感じました。ユダの合図も空しくイエス様は捕らえられて行きます。しかし、イエス様は従われます。神様の御心に。イエス様を捕らえた群衆や兵士たちではなく、神様の御心にイエス様は従われます。神様の御心、それは私たち一人一人が神様に大切にされているということを
私たち一人一人がイエス様との出会いを通して思い起こすことができるようになのです。

神様の御心のままにこの身になりますように。




レヴィアタンってモンスター?海の生き物?

ルーテルアワーのルターさん

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るたー

アニメやゲームのキャラに込められた名前には、
神との関係、人の罪、希望、贖い、終末、そして愛が詰まっておる。
それを知ると、物語の見え方もまるで変わってくるぞい。
聖書は決して古びた本ではない。
現代の創作にも深く影響を与えておる、「生きた言葉」なのじゃ。

うむ、レヴィアタン(レビヤタン、Leviathan)はヨブ記41章に出てくる、海の巨大な怪物じゃ。その姿は炎を吹き、うろこで覆われた恐るべき存在。神にしか制御できないとされておる。

『グランブルーファンタジー』や『女神転生』では、まさにボス級の強さを誇るキャラとして登場。混沌、恐怖、神秘の象徴でもあり、ある意味“人間が支配できない自然の力”を体現しとるんじゃ。




エノク(Enoch)って誰?ゲームで主人公だったけど…

ルーテルアワーのルターさん

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るたー

アニメやゲームのキャラに込められた名前には、
神との関係、人の罪、希望、贖い、終末、そして愛が詰まっておる。
それを知ると、物語の見え方もまるで変わってくるぞい。
聖書は決して古びた本ではない。
現代の創作にも深く影響を与えておる、「生きた言葉」なのじゃ。

エノクは創世記5章に登場する人物で、なんと死なずに神に取られたという、珍しい存在じゃ(創世記5:24)。「神と共に歩んだ人」と書かれており、その生涯はただならぬ敬虔さに満ちておった。

ゲーム『El Shaddai』(エルシャダイ)では彼が主人公で、堕天使を封印し世界を救う物語が展開する。まさに“義の人”として、神のために戦う者として描かれとるのう。わし的には推しキャラじゃ(笑)