神様からの恵み

祈り)
天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
生きている「今」というかけがえのない時をありがとうございます。
変化する空の色や雲の形、自然の一つ一つに立ち止まる時、たくさんのものが与えられていることに気が付きます。
そのような小さな一つ一つをも与えて下さる神様へ、いつも自分の心を向けることができますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。

【参照聖書箇所】詩編68編1〜11節

あなたの民の群れをその地に住ませてくださった。恵み深い神よあなたは貧しい人にその地を備えられた。(11節)

「え?こんなところにも神様っているの?」と私たちが思うところにも神様はいらっしゃいます。ここにはこの神様、あそこにはあの神様というようにたくさんの神様がいろいろなところにいるのではなく、どんな所にでも全てを創造された神様は聖霊となって共におられ、共に働かれておられるのです。

前に「トイレの神様」という歌がとても流行りました。もちろん、トイレにも神様は働かれておられます。きれいに掃除をしてくれる人がいれば「ありがとう」と喜んで下さるでしょう。私は幼い頃よくこのように言われてました。「隠れて悪い事をしたって人は見てないかもしれないけど、神様は見ておられるんだよ。だから悪いことはしてはいけないよ」と。これは悪いこともですが、いいこともなのかもしれません。自分の心の中におられる神様が見ておられるのかもしれません。

しかし、今、ご一緒にお読みしました詩編68編の中では、自分でも行かないのではないだろうかという所でも神様はおられると詩人は詩うのです。みなしごの父になり、誰も耳を傾けることがないであろうやもめの訴えに耳を傾け、そして孤独な人の傍らにおられます。

私はクリスマスが来る度に思い出します。人が泊まるようなことがないと思われていた家畜小屋でイエス様はお生まれになりました。このことが教えて下さるように、私たち一人一人がどんなに孤独を感じる事があっても悲しく惨めで、こんなこと誰も解ってくれないし、気にも止めてくれないだろうと思う時でも、神様だけはじっと一人一人の傍らにいらして、一人一人を包んで下さっておられるのだと。

あなたがどこにいても神様が共におられます。独ぼっちの人は誰もおられません。たとえあなたが神様を思い出せない時があったとしても、神様は決してあなたを忘れたりしません。こんな所になんて誰もいないよとあなたが思っても神様はおられます。

一人一人の命と共に神様はおられます。




一枚の写真が連れて来るもの|よみがえる記憶

 (189)

「よそ見しないで、カメラを見て!」…「顔の前に手を置かないで!」…、私はいつものように最後列の中央で、集合写真にお付き合い。保育士たちと園児との数分間の格闘(?)を経て、「まぁ、いいか」と撮影は終了。節目節目の保育園の集合写真に、チャプレンとして参加している時には必ず一緒にカメラに納まってきた。特に今年は最後ということもあって、感慨深い思いで撮影の場に立ち続けてきた。一枚の集合写真はお蔵入りしていたとしても、そこに詰まった沢山の想いや出来事は、蔵から出せば数十年後でも蘇るものである。成長した子どもたちが保育園時の集合写真を手にして、聖書の話や神様のことを思い出し心を元気にしてくれたら嬉しいが。

私にはいつも思い浮かべる集合写真が二枚ある。一枚は小2年の時の「日帰りバス遠足」の集合写真で、そこには私の母と弟も一緒に映っており、他に保護者はいない。恐らく保護者を代表して付き添ったのだろうけど、バス遠足も母と弟が同行したことも記憶からは全く消えてしまっている。しかしその写真を見る(思い出す)度に、母が私たち子どもに向けていた深い思いが感じられて嬉しいし、同時に「母を悲しませてはいけない」と私の歯止めになっている写真でもある。

もう一枚の写真は、牧師となって最初の休日に母教会(九州の久留米教会)を訪ねた時の集合写真である。北九州の黒崎教会(1993年に活動停止)が私の初任地で、結婚して一ヶ月の連れ合いに母教会を見せてあげたいと出掛けた。牧師館を訪ねると、午後から地区の牧師会があり、米国のお客さんも出席するので一緒に行こうと誘われた。普段着で出かけていた私は、即座に断ったのだが、是非と請われて夫婦で参加した。その時に撮った集合写真には、スーツの諸先生方に交じってセーター姿の私たち夫婦、そして誘ってくださった先生も同じくセーター姿の普段着で写っている。世話役だった先生のさりげなく、しかし深い配慮の姿を時折思い出しては、「この地で生きている人々と同じ所に立っているのか」と問いつつ日々を過ごしてきた。

聖書の時代には写真はない。しかし、想いを何とか残そうと文書に綴られ、綴られた文書から受けた想いが聖画となっていく。いずれも、大事な事を伝えたい、遺したいという思いがあるからだ。一枚の写真もまたそのような思いが伝わるものでもある。ただし、電子データに保存しているだけでは、その思いは伝わらないし思い起すこともない。溜まった大量の写真データから、大切なものはプリントアウトしておいた方がいいだろうなぁと思うこの頃である。




神に捧げるもの

祈り)
天の神様、新しい目覚めを私たち一人一人に与えて下さりありがとうございます。
「目覚めること」や「眠りにつくこと」これらは当たり前のようで本当は当たり前ではなく、
神様、あなたが一人一人へと与えられる恵みです。
ぐっすりと眠れないことやなかなか目覚めることができない、そのような経験を通して、
いつも当たり前のように与えられている神様の恵みに気付く時があります。
気付くどころか失ったものへの怒りや悲しみで心がいっぱいになることもあります。
感謝がいっぱいで祈る時も、怒りや悲しみをぶつけるしか神様に祈れない時も、
神様はいつも私たちの祈りを聴いて下さいます。
どんな祈りも神様あなたに心を向けて捧げることができますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと、
そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
神様あなたに全てをお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン

【参照聖書箇所】ホセア書6章4〜6節

『わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく
神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。』(6節)

『わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではない...』と今ご一緒にお読みしましたホセア6章6節で語られます。同じような言葉をイエス様がお語りになられたのをご存知ですか?それはマタイ9章13節にあります。どのような意味なのでしょうか。「えっ、ウソ。神様は何の条件もつけないの?」私たちは一般的に何かをしたらこれをしてもらう、というように何かを希望するのなら、相手の要求することをできるだけ果たしてからもらう、というような決まりを、当たり前のように思うことが多いのではないでしょうか。例えば、お金を払うから物がもらえるとか、成績が良かったから試験に合格するとか。目に見える形で努力をしないと手に入らない物は、目に見える形で努力すれば手に入る物です。しかし、それらは持っている人と持っていない人に簡単に分けられてしまうような気がします。持っている人は持っていない人を差別してしまったりするかもしれません。

神様は違います。何かと引き換えに希望を適えて下さるのではなく、全ての一人一人が持っているものを喜ばれます。それは全ての人に神様が与えている「愛」です。この「愛」を思い起こすことを喜ばれます。何か条件をつけられないと困ってしまうような時でも、神様は優しくあなたが神様から与えられている「愛」を思い起こし、神様へ差し出すことを喜ばれるのです。神様へ捧げられたあなたからの愛は、あなたの分が減ってしまうものではなく、そして、あなた自身の努力を要求するものではありません。ただ、あなたが神様に捧げれば捧げるほど豊かにされ、あなたの努力の成果ではなく心を運んでくれます。愛は自分の思いと一緒に神様へと捧げられ神様によって用いられます。神様へ捧げた愛は神様へ捧げてしまったからあなたからなくなってしまうのではなく、あなたの思いや願いをも神様が受け取り、あなたが捧げた愛と一緒に必要なところへと神様が運んでくれるのです。

『わたしの喜ぶのは 愛であっていけにえではない...』神様に自分からの愛を捧げるあなたと共に神様は愛を運ばれます。私の愛ってなんだろう。そのような心配はいりません。だって、あなたを大切にされておられる神様に捧げるのですから。




大事にしてネ|それは神様の祝福!

 (188)

「大事にしてネ」と保育士が子どもたちに声を掛けると、子どもたちの緊張が私にも伝わってくる。おずおずと差し出した手にウエハースを乗せてあげると、「ありがとう」という子もいれば、ジッと見詰めている子もいるし、直ぐに口にする子も。K保育園礼拝で小児祝福式が行われた時の様子である。

子どもたちにあげたウエハースは、教会の礼拝で聖餐式(註1)が行われる際に用いられているものだ。聖餐式は「聖礼典」(註2)であり、洗礼を受けた者に与えられる。保育園の礼拝なので設定されていないウエハースはキリストの体ではないが、大切なものであることには変わりない。通常の子どもたちの礼拝において、私自身が最も大切にしていることは、お話よりも実は最後の祝福である。ただしそれは見えないし、子どもたちには「礼拝が終わる」というお知らせのように受け止められているかもしれない。子どもたちの礼拝の時だけでなく、日曜日の礼拝においても、私は「説教に間に合わなくても、祝福だけでも良いから来てください」ということがある程、大切にしてきた。だからこそ年に一度、見える祝福としてウエハースを与えてきたのだ。

「大事にしてくださいネ」と、実はウエハースを購入する時に、お店の方に言われた。そこはカトリック系のキリスト教用品店で、ウエハースとしてではなく「ホスチア(いけにえの供え物の意)」として売られている。ホスチアは設定されると、小麦粉でつくられた物であっても「キリストの体そのものになる=聖体」(これを化体説という)という意味で、お店の方は「設定すればキリストの体になるものだから、大事にして」と私に話しかけられたのだ。微妙な違いだが、様々な教派にキリスト教が分かれていく原因になっているのが「聖餐式におけるパン・ぶどう酒の理解の違い」にほかならない。

大事にしたいものは個々人で異なるだろう。神の祝福は私にとって大事なものだが、子どもたちに押し付けるつもりはない。でも、「祝福を大事にしてネ、ウエハースを受け取った時みたいに」と祈りつつ、今年も保育園の小児祝福式を無事に終えられ感謝であった。

(註1)聖餐式ではパンをキリストの体として与え、ぶどう酒をキリストの贖(あがな)いの血として渡される。最後の晩餐の折のイエスの言葉(マタイ26章26節~28節)を根拠としている。その際、ルーテル教会では、イエスの言葉が加わる(設定する)ことによって、「パンであると同時にキリストの体になる、ぶどう酒であると同時にキリストの血になる」と信じている。
(註2)聖礼典とは神の救いの見える恵みを意味し、ルーテル教会では洗礼と聖餐の二つと定めている。




大切なあなただから

レビ記19:9-10

9.穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。 10.ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。
祈り)
天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めを与えて下さりありがとうございます。
なんだかとても眠い目覚めを迎える時、スッキリとした気持ちで目覚める時、
目覚めるのでさえ面倒でたまらない時、目覚める人の数だけ目覚め方は様々です。
どこかで誰かが一人一人の目覚め方まで決めてしまったら、きっと目覚めることが窮屈に感じる人もいるかもしれません。
神様、私たちに自由な目覚めをありがとうございます。
神様、あなたと共にある一瞬一瞬が、かけがえのない自由であることを感謝して歩めますように。
これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと、
そして、それぞれの心にある方々、お一人お一人へと神様、あなたがお語り下さい。
神様、あなたに全てをお委ね致します。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン

【参照聖書箇所】レビ記19章9〜10節

ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。(10節)

『...わたしはあなたたちの神、主である』とレビ記19:10で神様は言われます。神様の「かみ」と言う字をパソコンで変換したら始めに「髪」と変換され慌てました。使用する漢字の頻度が「神」は「髪」より少ないのだと改めて思い、教えられたようにも感じました。使用頻度がなくても大切なものはたくさんあります。
目に見えないものを思いやるとか、知らない人たちのために何かをすることって、「ほら、やってごらん」と言われてもなかなかできなかったり、それらをすることを恥ずかしがったりする時があります。どうすればいいのかわからない時もあります。しかし神様はいろいろな決まりを通して、私たち人間に分かりやすいように教えて下さいます。「貧しい人たちや寄留者の人たちの命を、あなたはこのようにして守ることができますよ」と規則が先なのではありません。あなた自身ができることをしてあげる勇気を持てば、いろいろな方法が見つかります。
私たちに何ができるでしょうか?それは一人一人違います。誰かと比べて評価するものでもありません。与えられている命は一緒です。間違いなく、みんな全ての一人一人が神様に命を与えられ大切にされています。「私は神、あなたたちの主である。」と私たちが神様を心の中心に置く時に、あなた自身が今できることを神様が教えて下さっていることを聴くことができます。胎に命を授かった母親のように、目には見えない命を守ることができます。あなたも、そして全ての一人一人は神様にとってかけがえのない大切な存在だからです。



あなたが必要なのです|神はあなたを必要としている

(187)

ほぼ自宅待機が続いていたコロナ禍中、数少ない「ワクワクする事」が、大リーグに渡ったO選手の活躍であった。「今日はどんな活躍をしてくれるのだろう、どんな笑顔を見せてくれるのだろう、どんな言葉を語ってくれるのだろう」と愉(たの)しみに彼の試合やニュースを見ていたからである。彼の活躍は暗い気持ちの日々の中で心を明るくしてくれ、あの頃を過ごした私(たち)にとって、心を明るくし前を向くために「必要」な存在だったのだと言って過言ではない。

その彼は今年、念願のワールドシリーズ(以下WS)出場の権利を得た。少年のような満面の笑顔を見せつつ試合に臨んでいたが、WS第2戦で負傷し第3戦以降の出場が危ぶまれたが、その後の試合も負傷した肩を庇(かば)うようにしつつ出場し、遂に優勝。試合後に「ケガをした後、何よりも『必要だ』『プレーしてほしい』って言ってもらえたことに感謝してますし、そういう気持ちが1年間頑張ってこられた要因だったかなと思います」(朝日新聞11月1日朝刊)と応えていた。今や大リーグでも屈指の選手となった彼であっても、「必要だ」と云われることが大きな支えになるということを示唆している。いわんや私たちにおいては殊更であろう。

褒めて育てるとよく言われるが、褒められることよりも誰かに必要とされているということの方が心は豊かになり前向きになれる。子どもたちが小さい頃に住んでいた北海道の帯広は雪が少ない所ではあったが、それでも年に数回大雪になることがあり、子どもたちは良く手伝いに来てくれた。その度に「助かるよ!」と声を掛けると、嬉しそうに手伝ってくれた、ただし十分間程だけど。あとは雪遊びに熱中し始めるのが常だったが、それでも一人で黙々とやる雪かきよりも、楽しそうに遊ぶ声が私への応援歌に聞こえて嬉しかった。それは何も雪かきの時だけに限ったことではない。家族を必要とし、家族から必要とされること、それが子どもたちの心にどのように刻まれ、何をもたらしたかは知る由もないが・・・。

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ6:26)神が養い装ってくださるのは、神がお創りになり平和な世界を実現するためには、私たちが必要だからに他ならない。だから聖書はいつも私たちに告げている、「あなたが必要なのです」と。

必要とされる喜びを、日々の歩みの中で思い起こせる幸いがありますように!




一人一人に与えられている命

祈り)
天の神様、新しい目覚めを私たち一人一人にありがとうございます。
天変地異の出来事に驚いたり、ちょっとしたさ細な出来事にうろたえたり。
全てのことの大きさや深さを感じる私たちは、その時の心の状態によって感じ方も違ってきます。

しかし神様、あなたからの愛は、たとえ私たちの感じ方が変わっても、その愛の大きさも深さも、決して変わることがありません。
私たちはそのようなあなたからの愛や慈しみに信頼し、委ねていくことができますように。

これから語られますみ言葉、この語る者を通して、
ここにおられるお一人お一人へと、神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によって、お祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所】詩編22編13〜22節

わたしの魂を剣から救い出しわたしの身を犬どもから救い出してください。(21節)

このようにして、皆様と共に聖書のみ言から聴く時をもつことが許されましたことを、神様に感謝したいと思います。

ある時、教会にあったポスターに、このようなキャッチフレーズを目にしました。「命って誰のもの?」それは青年キャンプで、今回テーマにされるものをポスターでアピールしたものでした。

「命って誰のもの?」一言で「命」と言っても、自分の命、植物や動物の命、光や風。私たちの周りには様々な命に溢れています。私が思春期の時のことだったでしょうか。「こんなに辛い毎日を過ごすのなら、死んでしまったほうが楽かも。」
なんて思ったことがあります。今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所を読んでいて、そう思ったことを思い出しました。

この詩編では、どんなに苦しくて惨めな状態でも、詩人は祈っています。「命」が自分のものであると思うとき、人は簡単に殺したり、その人の存在がなかったようなものとして扱うことができてしまうのではないでしょうか。それは、実際に殺さなくても、無視をしたり無関心になったり。自分に対しても、人や物に対しても行ってしまうことがあります。しかし、それらは孤独や憎しみ、悲しみしか生みません。

「命」は神様から与えられているものであると思う時、私たちにはお互いに関心を持つという、大切な心の繋がりが生まれるのではないでしょうか。




ルターの宗教改革|キリストを語り継ぐ宗教改革

(185)

1517年10月31日、ヴィッテンベルク城教会の扉に、所謂(いわゆる)「95ヵ条の提題」をルターは貼り出したが、社会に向けてではなく討論を求めるためであった。当時教会(ローマカトリック)は、聖ペトロの遺骨を保護するために大聖堂を建てようと計画し、街中で免罪符を売らんとして人々を集めて説教がなされていた。「箱の中で硬貨が鳴るやいなや、霊魂は煉獄(れんごく・罪を犯した人が死後に苦しむ所)から飛んで出る。この免罪符によって、神聖な不死の霊魂を、天国へ連れ込むことができる。」教皇の免罪符は神の聖母を冒涜した人を赦(ゆる)すことができる、教皇の紋章を描いてある十字架は、キリストの十字架に等しいとさえ言いつつ売りさばいていたのだった。ルターは憤り、95ヵ条に亘って提言した。「何よりも先ず我々が建てなければならないのは、生ける神の宮、次に地方の諸教会、一番最後に聖ペトロ大聖堂に過ぎないのであって、この大聖堂は我らに必要ではない。何故、教皇は金持ちであるのに自分のお金で聖ペトロ大聖堂を建てないのか。それを売って、免罪符の呼び売り人たちから搾取(さくしゅ)されている貧乏人に与える方が、もっと善行になるだろう。教皇には煉獄に対して何らの裁治権もない。教皇の免罪符は罪を取り除かない。もし教皇が誰かを煉獄から救い出す力を持っているのなら、なぜ愛の名においてみんなを救い出し、煉獄を廃止しないのか。くだらないお金のために、彼が無数の霊魂を救い出したのならば、なぜもっとも神聖な愛のために、その場所を空っぽにしないのか。免罪符は最も有害だ。なぜならそれは自己満足の念を起こさせ、そのため救いを危うくするからである。平和は信仰を通してキリストのみことばのうちにやってくる。」(以上、ベイントン著「我ここに立つ」より引用)免罪符は貧しい者から搾取するものでしかなく、ルターはただひたすらにキリストについて語り、キリストを信じて生きることを求めただけなのだ。彼の提言は、意に反して印刷され瞬く間に国中に広がり、後に「宗教改革」と云われる出来事となった。

あの日から500年、2017年11月に私たちの教会は、長崎の地でカトリック教会と合同で記念礼拝を行った。カトリックから追放(破門)されたルターだが、「破門と和解はただ教会の外面的な交わりにだけ影響するのであって、神の恩恵には影響しない」(前述書)と宣言した彼の思いが、実現した時であった。神の恩恵、即ちキリストの出来事を語り継ぐことこそがルターが成し続けたことであって、今もそのことは変わらない。宗教改革の日、ルターについて語るのではなく、ルターが願っていた「キリストの出来事を語り続ける」ことを今年も確認する日としたい。




不完全なあなただから

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
新しい目覚め、新しい命、そして今日与えられる新しい出会い。
私たちは誰に感謝をすればいいのか知っています。それは神様です。
一人一人の存在を愛し、一人一人を必要として下さる神様、今日一日を、そして与えられている一瞬一瞬を、
神様、あなたに感謝できる喜びをありがとうございます。
当たり前にできることや、当たり前にあるものは何もありません。
一つ一つが神様に与えられています。失ってみて初めて気づくものや、失ってすぐは自分に何が起こったのかさえ、受け入れることができないときもあります。
このような無力な私たち人間ですが、どうかよろしくお願いします。

これから語られますみ言葉、この語る者を通して、
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。

このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。

【参照聖書箇所】詩編15編1〜5節

主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り聖なる山に住むことができるのでしょうか。(1節)

今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「詩編15:1-5」には、とても完璧な行いをする人こそ、神様に選ばれた者として、聖なる宮に入ることがふさわしいと詩っております。「わかってはいるけどその通りできないわ。」というのが人間です。

小さい子たちが楽しむゲームに『王様ゲーム』というのがあります。ゲームの中心になった人が「王様の命令です」と言って、次々とゲームに参加している子たちに動作を指示します。指示された子たちが、王様の命令通り行動することを楽しむゲームです。私が急にこのゲームのことを思い出したのは、ある宗教の方がこのようなことを言われていると聞いたからです。「人に親切にするのはそれがイエス様のご命令だからです」

私たち一人一人には意思もあり、感情もあります。私たちはイエス様の思い通りに動く操り人形ではないのです。何よりも神様は、私たち人間に選ぶ自由を下さいました。「きっとこっちを選ぶ方が神様は喜ばれるだろうな。」と、分かっていても、私たちは選べる時と選べない時もあります。なぜなら、私たちは不完全な存在だからです。だからこそ、私たちにはイエス様の許しが必要なのです。私たちのために祈られるイエス様が必要なのです。

今、与えられた聖書の箇所に書かれている完璧な行動を私たちは求めることが必要です。でも、できない自分を責める必要はありません。イエス様があなたに代わって成し遂げてくださいます。

あなたはそのままでいいのです。




気遣いはちょっとで良い|救いになる小さな気遣い

(184)

汗疹(アセモ)が出来やすい体質の私は、腕時計を持たない。文字盤の金属が触れた部分に汗疹が出来るからだ。腕時計をしていなくても、夏になると毎年忘れずに汗疹はやってくる。中学生の頃からの付き合いなので、無意識にひっかきながら夏をやり過ごしてきた。しかし今年はいつもと違った。6月半ば頃から両腕に出来始め、7月末には両足にも出来、連日かきむしる有様だった。軟膏を購入したり、痒みを止めるために冷やしたりと工夫するのだが治まることもなく、9月になると背中やお腹にも出来始めた。私の腕をみて心配してくださる方も大勢いたが、その度に「ただの汗疹で、汗疹が出来るくらい若い肌なんです」と根拠のない冗談を交えながら応じてきた。しかし執拗な暑さが続く10月に「もう限界」と薬局に駆け込んだ。「痒み止めが欲しいのです」と両腕を見せながら店員さんに尋ねると、店員さんは目を丸くして、開口一番「病院に行った方が良いですよ、薬を買うよりも!」と商売を忘れたアドバイス。「そんなに酷いですか?病院へ行ってみますが、取りあえず痒み止めをください」と薬を処方してもらった。

数日後、空いた時間に皮膚科をネットで検索。「完全予約制」、「初診時はマイナンバーカード必携」という所が多い。マイナンバーカードは大事だからと大切に保管し過ぎて、どこに保管したかを忘れてしまった私なので、受診不可!やっと見つけた病院へ取りあえず出掛けると、病院のあるビル全体が改装中で休診中。八方塞がり、万事休す。途方に暮れたがこのまま帰宅しても痒みは続く。意を決して完全予約制の病院に行ってみることにした。「予約制とは分かっているのですが、診てもらえませんか」と受付で腕を見せつつ申し込むと、先日の薬局の店員さんと同じ顔をしつつ「予約の方が優先で、いつになるか分かりませんが待てますか?」と。待つこと30分、やっと受診し痒みからの解放の一歩が踏み出せた。見ず知らずの飛び込み客(患者)にも拘(かか)わらず、店員さんや受付の方のちょっとした気遣いが嬉しかった。

群衆をみて深く憐れまれたイエス、背後から服の房に触った女性を捜したイエス、子どもを受け入れたイエス、イエスに出会った人々の記憶が聖書となったが、そこにはちょっとした気遣いに溢れた「あのお方」の姿が生き生きと記されている。そんなちょっとした気遣いの出来る私になりたいと、定年間近になっても出来ていない自分を振り返りつつ願う私が今もいる。