わたしのためではなくあなたのために

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
「こうなったらいいなぁ」とか「ああだったらいいのに」と、私たちは思い描いたり想像したりします。
本当にそうなることが自分にとって必要なのかどうか、なんて考えるときもあります。
でもだいたいは今、自分が置かれている現実からの逃避や希望の時が多いかもしれません。
しかし、神様、あなたは必ず一人一人にふさわしい「とき」にふさわしい「こと」を与えて下さいます。
それらの一つひとつの与えられるものを、自分一人の力ではなく、いつも神様、あなたに心を向けて
神様、あなたと共に乗り越える落ち着きを与えて下さい。

これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:ヨハネによる福音書11章38〜44節】

わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。(42節)

「信じる」ということは、いったいどういうことなのでしょうか。自分の思い通りに物事が進むようになれば、信じられるのでしょうか。自分が納得いけば信じられるのでしょうか。逆に自分が考えもしなかったことが目の前で起こったりすると、いくら奇跡を願っていたとしても、逆に信じられないほど驚かされることもあります。

今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は、死者を蘇(よみがえ)らせるという信じられない出来事が語られています。このことは死んでいたラザロという人が特別だったのでも、ラザロの姉妹の信仰がイエス様の思いに適っていたからでもありません。ただイエス様は神様であり、神様のみ心をそこにいた人々だけではなく今、聖書を読んでいる私たち一人一人に示されるために行われた出来事です。

何か希望を叶えるために好きなものを止めてみたり、ときに自分が良いと思われる行動をしてみたり、私たちは神様と駆け引きします。そして、それが結果的に自分の体に良かったり、精神的に安定したりするかもしれませんが、神様が行う奇跡とは関係がありません。奇跡は神様から起こることなのです。それが結果的に自分にとって良いことであっても、あなたが願った結果だけなのではありません。ただ、神様は一人ひとりにとって必要なことしかなさりません。

奇跡は神様がされることです。奇跡を願うのではなく、一人ひとりを大切にされている神様を信じ、受け入れて行く者でありたいと思います。




脇役|脇役の喜び

 (157)

松戸市のK保育園の今年度最初の礼拝に出掛けた。始まるのを待っていたのは3才児20名。「牧師先生が来てくれましたよ」と保育士が入室するなり声がけすると、20人の子どもたちが一斉に振り返り私の顔をジ~~ッと見詰めてくる。席に着き司会の保育士が礼拝を始めても、20人の視線は私に注がれたまま。初めて礼拝に出席するだから、「牧師先生という見知らぬ大人が来て、これから何が始まるのだろうか」と興味津々なのだ。讃美歌もお祈りも、声も揃ってとても上手、きっとこの日のために一生懸命練習してきたのだろう。そんな子どもたちの様子を目に入れながら、私も「神様の救いの出来事・福音」を、3才の彼らに届くようにと祈りつつお話をし、保育園を後にした。

市川に赴任して5,6年経った頃、ある会合で年配の園長先生と話す機会があった。クリスチャンだと自己紹介された後、「保育の現場で一番大事にしていることは、保育士は子どもの『最初の目撃者』にならないことです」と、ご自身の長い経験から得たことを笑顔で話してくださった。「最初の目撃者ってどういうことですか」と尋ねると、「保育士は子どもと接する時間が長いので、子どもたちの初めての時に立ち会うことが多いんです。初めて立った、歩いたとか、スプーンを自分で使えた等々。それを目撃していても、『立ちました』というのでなく、『立ちそうです』と保護者に伝えるんです。最初に出来たことは、やはりお母さんが最初の目撃者になるのが一番大事だから」と、「脇役」に徹することこそが保育士の務めと教えてくださった。子どもを預ける家族の幸せは、保育士という脇役あっての事と思うが、「脇役」にしか得ることのできない喜びも、きっとあるのだろうとあの老園長先生の笑顔は教えてくれていた。

パウロとバルナバがリストラで足の不自由な人を癒(いや)してあげた時、群衆は彼らを「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお降りになった」と騒ぎだした。パウロは人々に自分たちは人間にすぎないこと、福音を告げ知らせにきたのだと説明し、群衆が自分たちを拝することを止めさせた。(使徒言行録14章)福音は使徒たちという「脇役」を必要としたし、彼らもまた「脇役に徹すること」によってキリスト者としての喜びを与えられていたことであろう。同時に全てのキリスト者も「脇役」として召されていることを受け取る時に、神が与えてくださる喜びに包まれることであろう。

あの3才児たちが私を見て「神様」と言うことがないように、彼らに伝わる言葉で、一年間お話出来るようにと祈っていきたい。




天国とは~ここも天国~

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
暑さを感じたり風を感じたり、日差しや雨を感じたり、
私たちはたくさんの目には見えないけれど、確かなものの中に生きています。
目に見える大切なものだけではなく、目には見えない大切なものへ心を向けるという
「時」を持つ事もできるように、これからの一瞬一瞬を神様あなたがお支え下さい。

これから語られますみ言葉、この語る者を通してここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:マタイによる福音書13章31〜33節】

「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(31〜32節)

イエス様はご自分の話を聞きたいと集まって来た人々に、「天の国」についてそこにいる人々にわかりやすいたとえで話されます。今朝ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は、丁度そのような箇所です。

とは言っても、「からし種ってどういうものだろうか」とか、お金を払えばすぐおいしいパンが買えてしまうような今、パン種のたとえなんか、聖書を読んでいる私たちには決してわかりやすいたとえではありません。何千年もの昔の外国でのたとえ話です。私たちにわからなくて当然なのでしょうか。そうではありません。

何千年もの昔の外国でのたとえ話を、神の言(ことば)として今ここに集まっている一人一人に「天の国」についてわかりやすく話されるイエス様の言葉を取り次ぐために牧師は用いられています。たとえば、小さな種と言うより朝顔の種と言ったほうがわかりやすい、というように「天の国」は私たちのとても身近にあることがわかります。そして人が名前をつけるほどに大切に思い、種なら畑へ、パン種なら粉の中へと人が取って蒔いたり入れなければ始まりません。このように「天の国」は一人一人を包むように傍(かたわら)にあります。それに目を留め、大切にし、あとは成長する力を信じて待つ、ほかの言葉を使えば神様に委ねることなのです。

「天の国」と聞くと、なんだか用意されている幸せな国へ自分が行けるのかなと思うかもしれませんが、私たちが生きているここが、神様も働かれている信じて待つことのできる、平和に包まれている世界なのです。私たちは自分の力や知力だけで生きているのではなく、神様に命を与えられて生かされていることを思い起こし、自分を包んでいる天の国の中を歩みたいと思います。




その音は騒音?それとも・・・|良き知らせは良き音になって

(156)

コロナ禍最初のイースターの日(と今週も同文で始めることにしよう)、次男夫婦に新しい家族が誕生した。私たち夫婦にとって二番目の孫である。嬉しさもあったが、それ以上に「感染」の二文字の心配の方が大きかった。孫に会えたのはそれから2年半後の初秋、休暇を利用した帰省の時であった。翌年も同時期に帰省し「おじいちゃん」と言ってくれるのが嬉しかった。そして今年4月、次男が北海道から九州へ転勤となり、移動の途中数日間帰省することになった。到着の日、私は二階の自室で作業していたが、2匹のワンコが吠える声、そして「ドンドン」と歩く音が響き、次男家族が到着したことが分かった。以前来た時も、こんなに歩く音が聞こえていたかなぁと思いつつ、同時にその音だけで成長したことを知った。大人三人の日常生活は、殆どの時間を静寂が支配する、時折ワンコが吠える時を除いて。そいう日常に突然響く子どもの足音や止まることのない声は、静寂な水面に突然さざ波、いや波風が立つようなものである。だが私には心地よく響き、4人の子育て真っ最中の頃の気分を思い出させてくれる。ただし、あの頃に比べると気力はかなり衰えていることも感じつつ。

市川教会に赴任した時、子どもの姿は無く、静かな中で礼拝が守られていた、我が家の子どもたちの賑やかな声を除いては。しばらくして子連れの家族が礼拝に出席されるようになり、一気に子どもたちの声や足音が、礼拝中も二階の部屋から聞こえるようになると…。二階の集会室に分厚い絨毯(じゅうたん)を敷く、戸袋を防音対策の壁に造り替える等対策を講じる一方、私の何処かには「子どもたちの声や足音は未来からの音、礼拝のBGM」という思いはあったが、それは封じ込めることにせざるを得なかった。子どもがいると家中に響く様々な音、果たしてそれは…。

キリストの出来事は「良き知らせ」(ευαγγελιον)と受け取り聖書は整えられた。その言葉を「(幸)福な音」と訳したのは、1737年頃に中国語に翻訳された聖書であった。漢訳聖書のマタイ4章23節(御国の福音を宣べ伝え)に用いられた言葉が、そのまま日本語にも用いられたのだという。(鈴木範久著「聖書の日本語」岩波書店参照)良き知らせを「音」と表現したことを、最初の日本語の翻訳者たちは大切にし、今も私たちが大切にし続けていることは大きなことだと思えてならない。

孫の短い滞在中に響き続けた音は「福音」であった。次はいつ聞けるのだろうかと心待ちにしているが、我が家の2匹のワンコは孫が居なくなった後、泥のように眠っていた。彼らには「福音」ではなく「恐怖をもたらす騒音」でしかなかったようだ。




安心して

祈り)天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。

私たちはいつも、いろいろな物やいろいろな人やいろいろな出来事にであいます。
それら一つ一つに思いをかけたり、心を奪われて自分を見失ってしまったりします。
一つ一つに振り回されるのではなく、いつも自分がちゃんと居ますように。
神様はいつもその他大勢の中の私ではなく、どんな大勢の中にいたとしても、かけがえのない私をいつも大切に大切にして下さいます。ありがとうございます。

これから語られますみことば、この語る者を通して今、みことばから聴くお一人お一人へ、
そしてお一人お一人の心にあるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを、神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのみ名によってみ前にお捧げ致します。

アーメン

 

【参照聖書箇所:マルコによる福音書13章1〜13節】
引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。(11節)

私はよく、このように自分が聖書のみことばから聴いて書いたメッセージをまとめたものを、A4の紙にプリントしてお配りします。

先日お配りしたある方がパッとプリントを開き「こんな長い物語を書くなんて大変ね。いつもそうされているの?」という反応が返ってきて戸惑いました。「物語?」「長い?」あれ?何か違うけどそうも取れるな。妙に納得してしまいました。日曜日に教会へ行ってメッセージを話すのも聞くのも2、30分、A4の紙で言うと4~6枚です。私はその時、ショートメッセージをお渡ししたと思っていたので、「長い」と言われた時にまず戸惑いました。そして聖書のみことばから聴いて語らせていただいているメッセージは、決して物語のように自分で作ったのではなく「聖書のみ言が私を通して語られる、神様からのメッセージなのに」と思いました。

どのように言えばいいのでしょうか。今、聖書のみ言が語られます。『 実は話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。』(マルコ13:11)神様からのメッセージは長い短いの問題ではありません。そして聖書から聴く一人一人へと語られます。語る人を通して、そして今、あなたを通して。神様はあなたに静かに語られます。

「何を語ろうか、とあなたは迷わなくていい。あなたを通して私が語る。乗り移るわけではないから安心しなさい。いつもあなたと共にいるからあなたは一人ではない。」




2024年のペンテコステっていつですか?

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るたー

ペンテコステが今年もやってくる~♪

2024年のペンテコステは5月19日じゃ!

ペンテコステは使徒たちに聖霊がくだったことと、それをきっかけに伝道が始まって教会が生まれたことを記念するキリスト教のお祭りじゃ。

この日は教会によってさまざまな行事が企画されているぞ。楽しみじゃの~(^^)/




イースターエッグ|卵に込められた愛

(156)

コロナ禍最初のイースターの日、「イースター前日の恒例の『卵つくり』は中止し、代議員さんが用意し車で運んでくださった『卵型カプセルに入ったチョコレートをラッピングしたもの』が備えられ、後略」(2020.4.12.週報)と、このエッセイにしたためた。あの日から市川教会のイースターエッグは「プラスチック製の卵型カプセル」を用いているが、校長先生の発案で、中には植物の種が入っている。タマゴ探しの後の「種まき」をしながら、「命」を連想してくれたら嬉しいのだが、何を感じるかは子どもたちに委ねるしかない。

イースターエッグは「鶏卵のゆで卵」と、疑うことはなかった。半世紀前、キリスト者としての歩みを始めて、イースターエッグに出会った。大きな鍋でゆで卵を作り、食紅を使って様々な色を付ける。緑、青、ピンクetc.キレイというよりも「毒々しく」見えたのは、「卵は白」という固定観念からかけ離れていたからだろうが、それも数回経験すれば慣れに転じた。単色では寂しいからと、子どもたちとクレヨンで模様を描いたこともあった。食べる際にクレヨンが付いてしまうのではないか等と心配したことは殆どなく、ヒビから沁み込んだ食紅で色付いた白身も、「食紅だから大丈夫だよ」と平気であった。やがて手に取った時に汚れてしまわないようにとセロファンで包むようになり、20年程前からは、筒状の装飾されたビニールに卵を入れ、湯煎することで貼りつくタイプに替わった。変遷はいろいろあったが、子どもたちと一緒に、鶏卵のイースターエッグ作りというスタイルは変わらなかった。

だが、コロナ感染症は、変わらなかったスタイルを奪ってしまった。予防という観点から、「一緒に作った食べ物を、提供する」ことを止めざるを得なかったからだ。ただ、どのようなスタイルであろうと、キリストがもたらしてくださった「キリストは復活され、私たちに永遠の命をもたらしてくださった」という喜びは変わらない。変わらないものと「どちらでも良いこと(アディアフォラ)」とをしっかりと見極めさえしていれば、卵型カプセルもその内違和感なく受け入れられていくのだろう。ただし、これが新しい伝統になるかどうかは分からないが…。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13:13)いつまでも残る最大のもの「愛」を、子どもたちがカプセル型タマゴの中にみつけてくれたら嬉しいと思いつつ、今年も大勢の子どもたちとイースターを祝えて感謝であった。




今このときも

祈り)天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
私たちはたくさんの命の中に生かされて今があります。
花を咲かせて一瞬のように散っていく花や、やっと芽を出してこれから咲こうとする花、
「あれ、こんなところにもあったんだ」と道ばたに咲く花に思わず笑顔になるときもあります。
そんな花々に自分の気持ちが写るような時や心を救ってくれるようにみえる時も、
神様あなたから与えられているものは私を責めるようなことはなく、見守り、包んで下さいます。
神様あなたから与えられている、かけがえのない今を感謝して生きることができますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人おひとりへと
そしてそれぞれの心にある方々お一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン

【聖書】マルコによる福音書15章33〜41節
「本当に、この人は神の子だった」

ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「マルコ15:39」で、「本当にこの人は神の子だった」と百人隊長と呼ばれる人の言葉として語られます。 聖書から聴くあなたには、今、どのように語られていますか。

「何をいまさら言ってるんだ」とか「あら、この言葉には注目しなかったわ」とか「ふーん、死んでからわかったんだ」「どうして今わかるんだ」と、聴く方の数だけ反応があり、思うことも違うのだと思います。それでいいと思います。だって間違いなく今あなたのためにキリストは十字架につけられ、十字架上で息を引き取られたのですから。たった一度だけのキリストの死、でもすべての一人ひとりのための死であり命の証しです。終わりではなく始まりです。

時々こんなことを思う時があります。「苦しい。どうして私は生きているんですか。殺して下さい。」と。死は終わりなのでしょうか。苦しみから解放してくれるのが死なのでしょうか。「死んだらどうなるの?」と思う時もあるでしょう。しかし、今、私たちが共に聴いた聖書の箇所で語られます。 「たとえあなたが死んでも、神の子イエス・キリストはあなたと共におられます。」




二日目の弟子たち・婦人たち|イースターの喜びを味わうために

(154)

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9:22他)弟子たちに告げられたこの預言は実現した。金曜日の午前9時に十字架に付けられ、息を引き取られたのが午後3時。ヨセフという議員が遺体を引き取り墓に納めた。一日目の出来事であった。そして三日目に預言通りに復活され、まずマグダラのマリアに会ってくださり、夕方には戸に鍵を掛けて部屋に集まっていた弟子たちに現れてくださった。弟子たちが戸に鍵をかけていたのは、ユダヤ人を恐れていたからだ。(ヨハネ20:19)では、二日目の弟子たちはどんな気持ちで過ごしていたのだろうか。

「三日目(翌日)には復活なさるのだからと静かに祈りつつ待っていた」とは到底考えられない。それどころかイエスの預言の言葉など忘れ、ただただ自分たちも捕らえられてしまうのではないかと恐れ、人目に触れないように身を潜めていたのではないか。大祭司の家の中庭で、「お前も仲間だった」と言われ「知らない」と慌てて否定したペトロは、特に脅(おび)えて過ごしていたかもしれない。二日目は幸い安息日であった。労働が禁じられ、火を使うことすら禁じられていた。彼らが身を潜めるには格好の日であった。その一方、イエスが墓に納められる有様を見届けていた(ルカ23:55)婦人たちは、最後の塗油をして上げることができないもどかしさの中で過ごしていたことであろう。だからこそ彼女たちは、三日目(安息日が終わる土曜日の夕暮れ)に、夜が明けるのを(もしかしたら一睡もせずに)待ち、明るくなり始めると直ぐに墓に向かったことだろう。ただし、生きておられるイエスに会うためではなく、死んでしまったイエスに最後のお別れをするために。

「恐れ、不安、もどかしさ」、十字架に付けられる前には誇りがあり、希望に満ちていた彼らは、全く逆の境遇の中で二日目を過ごしていたのだ。だからこそ「主が生きておられる」という事実に大きな喜びを覚え、その後は大胆に福音宣教に進んでいったのだろう。私たちは「十字架に付けられた主イエスが、三日目に甦(よみがえ)られた」ということを知っている余り、もしかしたら「イースターの喜び」を小さくしてしまっているかもしれない。それは、「主が十字架に付けられて二日目」を遠くに置いてしまい、あるいは「三日目」の準備に心を忙(せわ)しなくさせているからかもしれない。

とはいえ、春の訪れを告げるイースターの準備は、クリスマスの準備とは異なった「ワクワク」があるのも確かだ。だからつい忙しなく準備してしまう。反省だ!




ドイツにも桜がありますか?

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るたー

お花見シーズンじゃのう~(^^)

今日取り上げるのは「桜が満開ですね!ドイツにも桜がありますか」という質問じゃ。

日本ほどではないが、わしが生まれた国ドイツにも、いつくか桜の名所があるぞ。

なかでも有名なのがベルリンの桜じゃ。ベルリンの桜は実は日本から寄贈されたものじゃ。ベルリンの壁崩壊後、その跡地に桜を植えようと日本のテレビ局が呼びかけたことがきっかけで、約1億4000万円もの募金が寄せられ、ベルリンに桜並木が作られることになったんじゃ。

ドイツの桜は日独友好の証でもあるぞ。日本でもドイツでも、お花見を楽しもう~!