ソドムとゴモラって何で有名なの?

ルーテルアワーのルターさん

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るたー

アニメやゲームのキャラに込められた名前には、
神との関係、人の罪、希望、贖い、終末、そして愛が詰まっておる。
それを知ると、物語の見え方もまるで変わってくるぞい。
聖書は決して古びた本ではない。
現代の創作にも深く影響を与えておる、「生きた言葉」なのじゃ。

ソドムとゴモラは町の名前で、創世記19章に登場するぞ。ソドムとゴモラは不道徳と暴力に満ちていて、神の怒りによって滅ぼされた町なんじゃ。天から火と硫黄が降って焼き尽くされたという、とても厳しい審判の物語。

アニメやゲームでは、終末的な雰囲気や堕落の象徴としてよく登場する。たとえば『FGO』や『女神転生』などの世界観にピッタリなんじゃ。




行ったり来たり

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
いつの間にか、自然はいろいろな変化をしています。光を浴びる自然の中で思いっきり息を吸う。
それはどこかの山にわざわざ登らなくても、「今ここで」自分の部屋の中であっても、
ちょっと歩いてる道であっても、何かをしている最中にあっても、
少し自分の心や感覚の中で私たちは自然を感じることができます。
同じように心が荒れている時はどこにいても全て何もかもが乾いた荒れ野であるかのように感じたりします。

どんな時でも深呼吸をするように、一息置いて今、自分に与えられているたくさんのことに感謝できる
心の落ち着きが持てますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。

このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:詩編56編1〜14節】

恐れをいだくときわたしはあなたを依り頼みます。神の御言葉を賛美します。
神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者がわたしに何をなしえましょう。(4、5節)

上記のように詩人は詩います。神様からのみことばとは、「言語」や「文字」のことだけではなく、神様が私たち一人一人に与えて下さっている自然、土や光、空気全てのものです。神様からのみことばは、聞こえる人や読める人だけに語られるわけではありません。神様からの「みことば」は自然の中の全てのもの、土や水、空気や草花、人との出会いなど、いろいろなかたちで、それら全てのものを通して、私たち全ての一人一人へ与えられます。

そして詩人は「肉にすぎない者が、わたしに何をなしえましょう。」とも詩っています。これは鉄砲玉の前に出て行っても、どんな危険なところへ行っても大丈夫だよ、という意味ではなくて、どんな状況に追い込まれたとしても、恐れる事はなく、落ち着いてその状況での行動の仕方や考えが自分なりに考えられるように、まず、全ての創造主である神様に心を向けなさい、という詩であるように思います。

私たち一人一人も、日常の中で心が騒いだり凍り付くようなことがあったり、いろいろな時があります。その一瞬一瞬にも神様は共におられます。心を神様に向けられる落ち着きを取り戻す勇気をお与えくださいと祈りつつ歩みたいと思います。




一人でできなくても

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
一人ひとりの心と体の健康を支えてください。
寒さや暑さを感じたり、風を感じたり、日差しや雨を感じたり、
私たちは、たくさんの目には見えないけれど確かなものの中に生きています。
目に見える大切なものだけではなく、目には見えない大切なものへ心を向けるという「時」をもつ事もできるように
これからの一瞬一瞬を神様あなたがお支え下さい。

これから語られますみ言葉、この語る者を通して、
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:マタイによる福音書13章31〜33節】

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種より小さいのに、成長するとどの野菜よりもよりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(31、32節)

 

イエス様はご自分の話を聞きたいと集まってきた人々に「天の国」について、そこにいる人々にわかりやすいたとえで話されます。今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は丁度そのような箇所です。とは言っても、からし種ってどういうものだろうかとか、お金を払えばすぐおいしいパンが買えてしまうような、パン種のたとえなんか、今、聖書を読んでいる私たちには決してわかりやすいたとえではありません。何千年もの昔の外国でのたとえ話です。私たちにわからなくて当然なのでしょうか。

そうではありません。何千年もの昔の外国でのたとえ話を神様からのみことばとして、今ここに集まっている一人一人にわかりやすく
「天の国」について話されるイエス様の言葉を取り次ぐためにも牧師は用いられています。例えば、小さな種と言うより朝顔の種と言ったほうがわかりやすい、と言うように「天の国」は私たちのとても身近にあることがわかります。そして人が名前をつけるほどに大切に思う種なら畑へ、パン種なら粉の中へというように、人が取って蒔いたり、入れなければ始まりません。このように「天の国」は一人ひとりを包むように傍にあります。それに目を留め大切にし、あとは成長する力を信じて待つ、ほかの言葉を使えば神様に委ねることなのです。

「天の国」と聞くと、なんだか用意されている幸せな国へ自分が行けるのかなと思うかもしれませんが、「天の国」は私たちが生きているここなのです。神様も働かれていることを信じて待つことのできる、平和に包まれている世界なのです。私たちは自分の力や知力だけで生きているのではなく、神様に命を与えられて生かされていることを思い起こし、自分を包んでいる天の国の中を歩みたいと思います。




バベルって何?『バビル2世』と関係あるん?

ルーテルアワーのルターさん

https://biblestudy.jp/wp-content/uploads/2014/02/0f2542dcbb1fbec63950a582529599e0.png
るたー

アニメやゲームのキャラに込められた名前には、
神との関係、人の罪、希望、贖い、終末、そして愛が詰まっておる。
それを知ると、物語の見え方もまるで変わってくるぞい。
聖書は決して古びた本ではない。
現代の創作にも深く影響を与えておる、「生きた言葉」なのじゃ。

そうじゃ。バベル(Babel)は創世記11章に登場する「バベルの塔」の町じゃ。人間たちが天に届く塔を建てようとして、神に言葉を乱されてしまう物語じゃな。「神のようになりたい」という人間の欲望と傲慢を象徴しておる。

『バビル2世』では、超能力者たちが登場して、「選ばれた者」や「支配の象徴」としての意味を引き継いでおるのう。




あなたはわたしが選んだ器

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
私たちの周りの人々や自分が今生きている場所、出会い一つ一つが与えられていると思わなければ、一つ一つが不思議なものに思われます。

自分が生まれた家族、与えられている友人や仲間、それら全ての一つ一つは私やあなたという一人一人に神様によってふさわしいものを与えられていると安心して感謝の中を過ごすことができますように。
この奇跡のかたまりのように思える一瞬一瞬を精一杯生かして下さい。

これから語られますみことば、この語る者を通して、
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。

この語る者のすべてをお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

 

【参照聖書箇所:使徒言行録9章1〜19a節】

「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。(15節)

「自分はたった一人で生きてきた」とおっしゃる方はおられますか?ほとんどのことをご自分で決断し、なるべく人に迷惑をかけないように生きてこられた方がおられたとしても神様が関わってこられなかった方は一人もおりません。たとえ自分が独りぼっちで泣いていると思っておられたり、自分はいつも一人悩んでいたと思ったことがあったとしても、あなたはずっと一人ではありませんでしたし、これからの一瞬一瞬も神様が共におられます。

「なんでこんなにタイミング良くこの人に出会うんだろう」と思われたことはありませんか。今、ご一緒にお読みいたしました聖書の箇所においても劇的な場面が語られております。しかし、ここに出てくるサウロという人も、アナニヤという人もこの出会いに戸惑いうろたえます。特にアナニヤは自分たちキリスト者の迫害者であったサウロを受け入れることができません。「この道」と聖書で表現されている言葉は、イエス様を信じる道のこと、キリスト教のことを指しています。自分たちを迫害している人など信用できないとアナニヤは神様を否定するのではなく、「私が用いるのだ」という神様の言葉に従います。私たちも自分の思いだけにではなく神様に従う者でありたいです。

神様は必ず一人一人に必要なものを与えて下さいます。




あなたは必要な存在

祈り)
天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
あなたが一人一人に息を吹き入れ、命を与えて下さっている人間一人ひとりには、その命が与えられた日、誕生日があります。
「私はもう誕生日を祝うような歳じゃないわ」と言われる方もおられるかもしれませんが、
一人ひとりに命が与えられるかけがえのない日に歳はあまり関係なく、喜んでいい日です。
私たち一人ひとりは今、神様から与えられている数えきれない恵みの中を生かされています。
いつも私たち一人ひとりを大切にされ、共に歩まれる神様に感謝できますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、
ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

 

【参照聖書箇所:マルコによる福音書11章1〜11節】

主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。(3節)

今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所はエルサレム入城」ともいわれ、イエス様がその時代にユダヤ教で大切にされていた行事に参加されるために歩んだと語られる箇所です。昔の日本でいうお伊勢参りに近い宗教的行事だったと理解しています。そして、このイエス様のエルサレム入城は、いわゆる十字架への道を歩まれて行ったとも言われております。この聖書の箇所は、なんとクリスマスの季節が始まるアドベントの第一主日にも読まれる箇所です。イエス様のエルサレム入城も、お生まれになられた意味も十字架の死に続いてたのでしょうか?決してそうではなく、イエス様は十字架の死を超えた命への道を私たちに与えて下さったのです。でも、現代に生きる私たちが、どんなに聖書を読んだとしても、聖地旅行へ行ってエルサレムの土を踏んだとしてもイエス様を目で見る事はできません。イエス様は今、私たちの目には見えない聖霊のお姿で共におられるからです。

イエス様は弟子達に言われました。「主がご入用なのです」と言って子ロバを連れて来るように。命への道は主イエスがお一人で歩まれるわけではありません。主がご入用なのは、現代に生きる私たち一人ひとりでもあります。イエス様をお一人にしないで下さい。主イエスが命への道を歩まれるその時あなたが必要です。




あなたのために 

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
いろいろな気温差や気候の中で、体調を崩される方も少なくありません。
お一人おひとりの体調と共に、心も神様あなたがお支え下さい。

私たちは様々な出会いをあなたから与えられます。
時には歓迎できるものも、時には自分には到底受け入れることができないようなことにもであう事があります。
いつも心を神様に向けて、歓迎できるものも、受け入れることができないようなことも、

あなたが私たち一人ひとりに与えられる、一人ひとりの「与えられた時」であり、神様と共に受け入れることができると信じ、歩む事ができますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:イザヤ書53章11〜12節】

彼は自らの苦しみの実りを見それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。(11節)

神様からのみことばを通して、こうして皆様お一人おひとりの魂と出会えますことを感謝しています。よく入院仲間に言われます。「待っている人たちがいるからいいね。」って。もちろんその方にも家族はおられ、その人が家に帰って来るのを待っておられると思います。一般にいわれる家族ではなく、職場があるから羨ましいと、その人は言っておられると思います。もう30回を超える回数、私はこの言葉を皆さんに言わせていただいてます。

今、また言わせて下さい。「ただいま。」

この「ただいま」という言葉は、自分の家に帰る時、家にいる兄弟や親に言います。それこそ、私たちは何回言ってきたでしょう。「ただいま」「お帰り」と言う関係は家族で、それは、今それぞれの場所で聖書から聴いている私たちも家族なのではないでしょうか。一人ひとりは皆、兄弟姉妹です。どこかの集会で、誰かが休めば心配したり、久しぶりにいらした方がおられれば喜んだりします。では、今私たちが聖書から聴く者にとって親は誰なのでしょうか。それは神様です。でも、私たち一人ひとりが気づかずに犯してしまった悪い事など、人間では把握しきれないどうしようもないことを「お父様ごめんなさい。」と謝って下さった方がおられます。自分がわからないうちにやってしまうこと。その一つひとつは人間である私たちには背負いきれない、たくさんのものがあります。このままでは全ての一人ひとりの親である神様に「ただいま」と言えません。そして、神様からの「お帰り」が心に届きません。

すべての一人ひとりが神様の家族として「ただいま」と言えるように、イエス様が一人ひとりの代わりに全ての罪を負い、私たち一人ひとりを神様のもとへと心を向けられるように執り成して下さいます。私たちはイエス様と共に歩んでいることをただ信じて歩むだけです。私たちにできること、それはイエス様の執り成しによってある今を感謝することなのです。

 




信じる強さ

祈り)
天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
しかし、いつも目覚めを喜ぶことができる私たち一人ひとりではありません。
もう少し目をつぶっていたい現実や、できればなかったことにしたいような出来事が突然起こったりもします。
それが生きているということなのでしょうか。
時々、生きていることさえ面倒になる現実もあります。
そのような時でも神様あなたは私たち一人ひとりと共にいて、共に立ち止まり、共に歩んで下さいます。
あなたに生かされ、今というかけがえのない時を与えられていることを思い起こすことができますように、
一人ひとりの心を神様あなたがお支え下さい。

これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章13〜25節】

イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(25節)

 

新約聖書の一番始めから読もうとして人の名前が、しかも、あまり日本では聞き慣れないカタカナの名前がずらずらと書かれていて「よし、聖書を読むぞ」という決心が何度もくじけそうになった覚えはありませんか?私はあります。確かに新約聖書の一番はじめにある『マタイによる福音書』にははじめに神様が造られたアダムからイエス様への系図が、それこそずらずらと記されており、ちょっと戸惑います。私たちにも先祖をたぐる系図というものがあり、それを持っておられる方も少なくありません。しかし、この系図はイエス様がこの世にお生まれになられたのだと聖書を読む私たちへの証しでもあります。

もう一つ系図があります。系図と言っても書き記す必要もないけど、大切な系図です。はじめに申し上げた系図が血統を示す系図なら、こちらの系図は信仰を示すものです。今、ご一緒にお読みいたしました聖書の箇所において
「父アブラハム」という言葉がたくさん出てきますが、日本人である私の血統に、果たしてアブラハムはいるのだろうかと考える必要もないのです。「信仰」の系図には時代も国も性別も関係ありません。今、あなたは神様を信頼していますか?これだけです。信頼の仕方や態度、そのようなことを他の人が判断することでもありません。「信仰」は比べるものでも差別するものでもなく、神様に全てをお委ねます。この世の価値観が、自分の存在を小さいものであるかのように思わせる時もあります。

しかし、復活されて今も共にいて下さる神様、イエス様が等身大のあなたをそのまま受け入れていて下さっておられます。




大切なのはあなた

祈り)
天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
今、自分に与えられているもの、それはたくさんあります。
それらに感謝することから一日を始められることに感謝します。
命を与えて下さり、光や空気これら全ての自然、一人ひとりにふさわしい場所や時。
そして、それら一つ一つの存在を大切にされておられる神様に感謝します。
神様が与えて下さるその空間の中を、安心して感謝して歩み、「今」というこの全てに感謝します。

これから語られますみことば、この語る者を通して、
ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所 マタイによる福音書6章25〜34節】

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(34節)

「思い悩むな」と、与えられた聖書の箇所に語られています。私たちは物事を反省したり、後悔したりしてしまう存在です。「あー、あの時こうしておけば」とか、「こっちを選べばよかった」とか。。。反省して次は同じようなことは繰り返さないようにすることもできます。しかし、「何でこんな顔に生まれてきたんだ」とか、「どうしてこんな所に」、「自分なんか生きてても。。」という問い、いわゆる自分の存在への問いは自分にはどうしようもありません。昔、「過去や未来や他人は変えられないんだよ」と言われたことがあります。未来を不安に思って、自分に与えられている大切な「今」を感謝できないこともあるんだと考えさせられた事もあります。自分が「今」存在していることは、神様のご計画であり、一人ひとりふさわしい所で、ふさわしい存在として、神様に存在させて頂いてます。

今、与えられました聖書の箇所においてイエス様は言われています。「野の花を見なさい。」と。また「空の鳥を見なさい」と。全ての一つ一つは神様にとって必要な存在です。私たち一人一人も神様に大切にされ、命を与えられています。

一人一人がそのまま神様に必要とされています。




神様のみ心に従う

祈り)
天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
今日、誰がどこで目覚めたか、そのようなことはある程度知っている人くらいは気になりますが全く会ったこともなく知らない人のことなんてあまり気になることはありません。
しかし、家族は違います。お母さんやお父さんや兄弟が起きてこなかったり、早く眠ってしまったり、
顔色が悪いと気になります。私たち一人ひとりは神様にとって全ての人が家族です。
神様に大切にされて信頼されている存在であることを思い起こし今日も安心の中を精一杯生きましょう。

これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:使徒言行録8章26〜40節】

フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すぅべての町を巡りながら福音を告げ知らせカイサリアまで行った。(40節)

「神様からのお導きで」とか「イエス様のお導きで」という言葉はなんの抵抗もなく私たちは聞きますが「霊のお導きで」というのはなんとなく怪しいように聞こえることがないでしょうか?それは、私たちが持っている「霊」という言葉へのイメージからくるのかもしれません。目には見えない得体も知れない力であるとか、死んだ人の霊とか。

今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「使徒8:26-40」のフィリポの働きもまさしくこの「霊のお導き」での出来事です。聖書に書いてあるから、私たちはどこかで「これも神様のお働きのかたちなんだな」と思えますが、なんとも不思議なことがあるもんだと思えばそれで終わってしまうかもしれません。この物語は宦官(かんがん)が神様へ導かれて喜びに満ちあふれます。

キリスト教では「神様からのお導きで」と言うのも「イエス様のお導きで」と言うのも「霊のお導きで」と言うのも皆、同じ神様の働きのことを言います。それらの三つの働きによって、私たちは神様に愛され大切にされていることを知らされるのです。神様の三つの働きのことを「三位一体」と言い、神様からの良い知らせを私たちは「福音」と言います。しかし、その一つひとつは一人一人の実際の生きた証しでも私たちに示されます。

今、あなたが存在している。そのことが神様には必要なのです。