あなたは今、神様に命を与えられ生きている

祈り)
天の神様,私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
全ての人が、全く同じ思いを抱いて目覚めるわけではありません。
また、他の人からはどう見ても目覚めているようには見えないとしても、神様から与えられる目覚めは一人一人全ての人に与えられます。
神様にとって誰一人として欠くことができない大切な存在だからです。
神様は裏切りません。神様はいつも一人一人と共におられます。
今日もそのようなあなたの愛の眼差しの中、安心して歩めますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:マルコによる福音書12章18〜27節】

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。(27節)

私たちが今生きている世界が、とてもとても大きく感じることもあれば、とても小さく感じることもあります。自分自身の存在もとても大きく見えたり、小さく感じたりします。でも、実際の大きさは変わりません。変わるのは自分の持つ価値観です。その価値観も、自分がいる環境や状況、年齢でも変わっていきます。変化してはいけないものではなく、変化が当たり前の存在として私たちは生きています。よっぽど特殊な能力を持った人以外は、自分が赤ちゃんだった頃のことなんてほとんど覚えていません。

しかし、変わらない存在があります。それは神様です。変わらない神様の国のことを、変化する私たちの世界にあてはめることができるでしょうか?残念ながらそれはできません。しかし、逆に神様が変化する私たちの世界の中に入ることはできます。それは、神様の持たれる価値観であったり、「時」であったり、「愛」であったり、「命」や「存在」です。

今、ご一緒にお読みしました聖書の箇所においても、復活についてこの世の価値観にあてはめようとする人々に、神様からの価値観を、この世での私たちが持つ一般的な価値観にあてはめるは必要ない、ということをイエス様は言われます。神様の国の価値観はもう存在しているからです。ただ、私たちが神様の国の価値観に立ち止まらず通り過ぎてしまっていたり、たいしたことはないと見過ごしてしまうことが多いことなのです。私たち一人一人の存在も、神様からの価値観からみれば神様から大切にされているかけがえのない命の存在です。

ご一緒にお読みした聖書の箇所にある、当時社会的に偉いとされていた人々がこだわり、イエス様に質問したことは本当に大切なことだったのでしょうか。神様から与えられている大切なものを大切と思う価値観を受け止めるやさしさを与えられている今を感謝したいと思います。




信じる

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
毎日、私たちは新しい日々を与えられ、それぞれが心を新たにします。
私たち人間だけではありません。木々や、野の花も命を与えられ輝いています。
たとえ、私たちにはあまり見えなくても土の中に温もりや冷たさを感じます。
一つ一つのことは今、神様、あなたに命を与えられているからこそできることです。
私たちが今、神様、あなたに命を与えられているということを感謝できますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:マルコによる福音書12章1〜12節】

家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。(10-11節)

私たちはいつも、私たち一人一人のために、キリストイエスが十字架の苦難の先の、命への道を歩まれておられることを思い返す日々を共に歩んでます。毎年毎年イースターの前の季節に、イエス様が歩まれた十字架の先へと続く命への道を覚えて礼拝を守りますが、毎年、イエス様が十字架に掛けられて死んで、毎年、三日後に復活されてイースターを迎えるわけではありません。イエス様が十字架に掛けられ、亡くなられ、三日後に復活されたのは一度だけです。しかし、そのことを思い返し祈る私たち一人一人は、イエス様を思い返す度に、その意味が自分に新たに語りかけられるのです。

今、ご一緒にお読みいたしました聖書の箇所では、たとえ話をされるイエス様と、当時社会的に偉いとされていた人たちの、心の中心が全く違っていることがわかり、とても滑稽に思いました。このたとえ話は、偉い人たちには自分たちへの当てつけだと思ったようでしたが、イエス様の心の中心は神様です。そのような小細工は必要ありません。当時偉いとされていた人たちは、神様ではなく群衆を恐れます。

私たちの心の中心が、自己防衛のためや権力やお金に向いてしまうとき、イエス様を忘れてしまいます。イエス様の教えさえも、自分を責めているようにしか受け取れないときもあります。しかし、全ての一人一人を大切にして下さる神様であるイエス様は変わることはありません。私たち一人一人の心を神様に向けていて大丈夫です。




なんで

祈り)
天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
まだまだ、暑かったり寒かったりする日が続いておりますが、所々に季節ごとの足音を感じます。
私たち一人ひとりがそれを見て思い起こすことは一人ひとり違いますが、
神様、あなたから与えられている恵みは、一人ひとりの全ての人に同じものが与えられております。
全ての一人ひとりが、今、一人ひとりに与えられていることに感謝できる私にして下さい。

これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

 

【参照聖書箇所:マルコによる福音書 11章15〜19節】

そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」(17節)

皆さんのイエス様のイメージっていったいどんなでしょう。お一人お一人がお持ちになられているイメージの細かい所は違っていても、だいたい同じで、穏やかでやさしい方というイメージが大半ではないでしょうか。

ところが今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所においては、ほとんどの方のイメージとは違って、神殿の中で商売などをやってる人々を叱責します。「怒る時はイエス様だって怒るんだよ」ってことでしょうか。そんな生温いものではありません。イエス様が感情に任せて怒られたわけではなく、何が一番大切なのかを分かってくれない悲しさも、祈りも、あったのだと思います。そして何よりも、そこにいた人たちに分かりやすく教えられたのだと思います。「祈りの家を強盗の巣にしている」ことに気づきなさい、と。

私たちは気づかずに間違ったことをしてしまったり、人を傷つけたりしてしまいます。「気づかなかったからしょうがないじゃない」と開き直ることもできますが、神様の前で気づいた事に向き合うこともできます。「ごめんなさい」と言うのか「もうしません」と言うのか。でも、私たちが考えの及ばない範囲のことまでは自分で責任が取れません。それでもいいのではないでしょうか。自分にできないこともあると思う時は「神様お願い頼みます。」と、頼む相手を間違えないことを私たちは選択できるからです。

神様に助けを求める権利は全ての一人ひとりが持っています。その時代の権力や価値観が、神様の前に進む一人ひとりを妨げてはいけません。イエス様の行為はいつも神様の愛に満ちています。今、ご一緒にお読みし、聴いた聖書の箇所も、決して感情的で怖いイエス様ではなく、愛に満ちたイエス様のお姿なのです。




いつも一緒

祈り)天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めを与えて下さり、ありがとうございます。
「今年の4月は...」と昨年と比べてみたり、「自分の記憶にある4月ってだいたいこうだったよな」と私たちは比べます。
小学校や中学校の入学式など様々な思い出がよみがえって来ます。
その思い出が映像として残っている人も、香りや音で残っている人も、心に残る4月は一人ひとり違います。
その一人ひとりのかけがえのない瞬間に神様あなたは共におられ、一人ひとりの心に寄り添って下さいます。
あなたと共にある今を私たちは勇気を持って精一杯生きることができますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、
ここにおられるお一人おひとりへと、そしてそれぞれの心にある方々お一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン

【聖書】ヨハネによる福音書21章1節〜14節
イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

あなたは何度イエス様と出会いましたか?今日与えられました聖書の箇所「ヨハネ21:14」で、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」と語られます。「へぇ、三度もイエス様と出会ったのかぁ」と思われる方も、「三度しかまだお会いできないのか」って思われる方も、聖書を読まれるお一人おひとりの反応はいろいろあると思います。それら一つひとつがすべて大切な反応であり、神様にとって尊いものです。しかし、回数で語られるようなイエス様とのいろいろな出会いは私たちからの視点のことです。

では、イエス様は私たちとの出会いは何回なのか?それは一回です。一回で十分です。だって私たちの命が造られてずっとですから。回数は少ないけど出会ってからが長いのです。ペトロは漁師としての生活に飛び込みます。そこにもイエス様は立っておられます。

イエス様は日常の中にあってもあなたと共におられます。たとえあなたが気付かなくても、いつも共に立っておられます。イエス様はボーッと立たっているのでも、ただ立っておられるのでもなく、あなたと共におられるのです。

いつも愛にあふれた眼差しであなたと共におられ、共に歩んで下さいます。




節目|牧師の幸い、それは執り成しの祈り

(208)最終回

2000年4月に市川教会に着任した私の最初の務めは、船橋市の病室であった。重篤な方のご夫人より連絡を頂き、急遽訪問することになったからだ。「先生が市川にお出でになるのを、主人は楽しみにしていたんですよ」と声を掛けられ病室に入ると、点滴をしたまま体を起こし、ベッドに腰かけて笑顔を向けてくださった。「楽しみに待っていてくださった」の一言が、市川教会で働くことの不安を一掃してくれたことを、今もはっきり思い出す。翌週、天に帰られ葬儀を行わせていただいた。こうして市川教会の働きが始まった。

人生には様々な「節目」がある。誕生、入園、入学卒業・・・。勿論、人によって違いはあるし、その節目に立ち会ってくれる人も異なるが、多くの方々の、多くの節目に立ち会う機会を与えられるのが牧師の務めである。それは牧師の就業規則にある訳ではない。牧師の務めの最も大切なことは、「執り成しの祈りを行うこと」だからである。

「万人祭司」ということをルーテル教会は大切にしてきた。「全ての信徒は祭司である」ということであり、祭司の務めの「執り成し」が大切であることを理解しているからに他ならない。特別な教育を受けずとも、愛する人のために私たちは「何かしてあげたい」と切望する。キリスト者は、愛する人のために「神に助け・願い」を請い祈る。それを「執り成し」と表現するのであって、牧師は教会に連なる方々のために執り成し、個々人の節目に牧師だけは立ち会い執り成し続ける。「節目に立ち会うことが出来ない、あるいは求めてもらえなくなったら、その教会での務めは終わる」という覚悟で、私たちは牧会に携わっているのである。

赴任以後、「私の葬儀は先生にお願い」と言い切ってくださった方々に、私は「しません、ここにいる間は生きていて欲しいから」と応えてきたにも拘わらず、40人の方々の、最も大きく最後の節目「死」に立ち会わせていただき、執り成してきた。お一人おひとりの節目に立ち会うことは、牧師であることの重責の表れでもあると同時に、牧師であったからこその幸いでもあったと、心から神に、そして市川で関わらせていただいた皆様に感謝しています。

今、私にとって地上に生ある内の恐らく最も大きな「現役引退」という節目を皆様と迎えられ、本当に幸せな牧師生活であったと心に刻み、感謝してこのエッセイを閉じることと致します。皆様の最も大きな節目に立ち会ってくださるM牧師に次を委ねて、九州から皆様に神様の祝福を祈っています。サヨウナラ!




心のわだかまりはなるべく減らして

祈り)
天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
寒い日が続き空気はどんどん乾燥したり、暑くて湿気が多かったりします。
同じ日本でも気候が違っていたり、世界では日本とは全く反対の気候の所があります。
本当に自然の中に生きている私たち一人ひとりの存在の小ささを感じます。
しかし、その小さな存在にも余す事なく、神様は愛を注ぎ、一人ひとりの魂を大切にされます。
どんなに小さい存在でも、大きな悩みや悲しみを抱え込んで溺れそうな私たちでもあります。
それでも神様、あなたは私たち一人ひとりに丁寧に寄り添って下さいます。
そのようにしてくださる神様に心を向けて生きられますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、
ここにおられるお一人お一人へと、神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたへお委ね致します。

このお祈りを、主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

 

【参照聖書箇所:マタイによる福音書 5章21〜26節】

しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。(22節)

 

皆さんは「許す」ということの難しさと大切さを感じられたことはあるでしょうか。「こんちきしょう、おまえなんか死んでしまえ。」と思っていた人が本当に亡くなってしまったら、言いようもない後悔や後ろめたさが残ってしまう。そのような思いをされた方もおられるかも知れません。そのような思いは意識的であったとしても無意識であったとしても、自分の心の中に残り溜まっていきます。

では、どうすれば良いのか。今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所に書かれているように、神様の前に出る前に気づけば良いのでしょうか?それは私たち人間にはとてもとても無理なことです。神様は無理をしてでもあなたの力でどうにかしなさいとはおっしゃいません。「思い出すことがあれば、できるだけのことは神様の前に出る前にやりなさい。」と神様はおっしゃいます。でも、自分では思い出せずどうしようもないこともたくさんあることは神様もご存知です。だから、そのような事がたくさんある自分さえも受け入れて下さる神様にお任せする勇気をも私たちは必要です。

「許す」ということは和解することと同じ意味です。自分との和解も、すべての人との和解も「許す」ことから始まります。たとえ、自分では許すことができない、どうしようもないことがあったとしても「私が許せない人や、許せない事があったとしても、その人やその事をも神様、あなたがお許しくださるように祈りお委ね致します。」と祈ることで、あなたが神様に赦されます。

これからの歩みが神様と共にあって、自分自身や人との和解の中を歩めますように。




恵みと出会うために|私の恵みはあなたに十分である

(207)

「1308回」、次週の週報エッセイの通しナンバーである。2000年4月に市川教会に着任してから、毎週の週報にエッセイを掲載してきた。前任地帯広教会からの続きでもあり、前任地では510回が最後であったので、トータルすれば1818回(休載したのは、3~4回)、ほぼ35年間毎週掲載してきた。

きっかけは単純な事で、「教会になかなか来ることが出来ない人に、週報を通じてメッセージを送りたい。」ただそれだけの事であった。日常の中にも沢山の恵みを頂きながら過ごしているのが私たちであり、その恵みを分かち合うことが出来たらと願ったからでもあった。教会によっては「会報」等を毎月作成して教会の状況・会員の消息を分ちあったり、会員の思いを共有したりするケースも多々あることは知っていた。しかし帯広は小さな教会だったので「会報」という形にしてしまうと、原稿を集めるだけでも個人負担が増えてしまうのは目に見えていた。だから、個人として発信し続ければ、何とか続けられるかもしれないと思ったからでもあった。

開始した当初は子育てで忙しかったが、子どもを通して沢山の恵みを見出すことができ、書き続けることに労したことは余りなかった。市川に着任後は施設のチャプレンを兼務することになり、教会になかなか来ることがない職員もいるので、キリスト教について少しでも理解してもらおうと、エッセイを掲載し続けることにした。我が家の子どもたちが成長してからは、プライベートなことにはあまり触れないようにしつつ書き続けてきた。とはいえ、毎週書くテーマが山のようにある訳ではない。それゆえ、常にテーマとなるようなことに触れたら、取りあえずメモに残し、数日掛けて内容を膨らませたりしながら整えていく。大抵、週末がその作業の日となる。本当は週末を迎えるまでには整えたかったのだが、「明日がある」と先送りにしてしまう性格が災いして、慌ただしい週末を過ごしてきた。パウロは「私の恵みはあなたに十分である。」(Ⅱコリント12:9)と述べているが、苦労しながらも毎週書くことが出来たという事は、まさに「十分に与えられている恵みに気付いたからだ」ということに他ならない。私が牧師として歩むために、エッセイを書くという作業を通して、神が訓練してくださったのだろうと思えてならない。

拙文を辛抱強く受け入れてくださった皆様に心から感謝しています。残り一回、どんなことを書こうかと、引っ越しの準備をしながら思いを馳せつつ市川で最後の週を過ごします。




何のために生まれてきたのだろうと思う時の聖書~あなたが必要~

祈り)天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
今、土の中からたくさんの命の息吹が出始めています。
今年は例年より気温が低くなかなか春の気配を私たちは感じることができませんでした。
しかし、神様あなたが私たちに与えて下さる一つ一つの恵みには平均的な値や重さの違いなんてありません。
神様、あなたは一人一人に十分な恵みや愛を、慈しみを持って注いでいて下さいます。
今日もあなたに感謝いっぱいで過ごすことができますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。

このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:エゼキエル9章9節、10節】
主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。 それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。

「何のために、私は生まれて来たのだろう。」このような思いを、少なからず一度はお思いになられたことはないでしょうか。「何のために私は生まれて来たのだろう。」私もこう問わずにはおられない、そんな心の追いつめられた状態になるときがあります。ではイエス様はどうでしょうか?イエス様は何のために生まれていらっしゃったのか。

3月5日に「灰の水曜日」を迎え、私たちはイエス様の十字架への道への歩みを覚える受難節を迎えました。イエス様は十字架の上で死ぬために生まれたのでしょうか。いいえ違います。神様から生をこの世に受け、神様に必要とされて生かされたのです。それは私たち一人一人も同じです。今、生きているのは、今ここであなたという存在が必要だから神様に見える存在としての命を与えられています。見えない存在として必要とされ、生かされている命もたくさんあります。じゃあイエス様と私は同じ?私たち人間は、地上で生きられたイエス様のように生きようとすることもできるでしょう。しかし、神様であるイエス様のように、神様と人間の架け橋そのものにはなれませんがイエス様と人間を繋ぐ心や祈りを、人々に分けることはできます。私自身がどんなに小さくて弱く感じていても、そのようなありのままのあなたを神様は用いて下さいます。

「何のために私は生まれて来たのだろう。」ではなく「神様があなたを必要とされているから今、あなたは命が与えられている」のです。




アディアホラな事|日常の中のアディアホラ

 (206)

大学の学びを終え、神学校進学を控えたある日、三鷹駅のプラットホームで、教義学を教えてくださっていた故石居正巳先生と一緒になった。45年も前のことである。(その頃私は新宿でビルの管理人のアルバイトをしながら通っており、石居先生は蒲田教会を牧会しながら神学校で教えておられた。)私を見つけた先生は、おもむろに「神学校で卒論のテーマは何をするんじゃい(石居先生の口調のまま)」と問いかけてこられた。明確に決めていた訳ではなかったが、平和について関心があったので「平和の事、ですから実践神学ですかねぇ」と応えると、「礼拝学をやらんか?」と。その後の会話は覚えていないが、先生に背を押され礼拝学をテーマとすることにした。

礼拝学を研究する際に避けて通れないものが「ドイツ・ミサ」と言われるルター派最初の礼拝式で、ルターが手掛けたものである。カトリックで行われているミサの式次第から、欠かすことができない大切な事と、用いても用いなくてもよいもの(アディアホラ)を考慮しつつ整えられた。ルターは「御言葉(聖書・説教)と聖礼典(聖餐・洗礼)」の二つを欠かすことができないものとし、その上でカトリックのミサから信仰の助けになるものを残していった。私も卒論を整える際に、この「ドイツ・ミサ」の学びから始めたが、この学びは私の牧師としての在り方にも大きな示唆を与えてくれたものとなった。

イエスの宣教の歩みも、まさに「何がアディアホラ(どちらでも良い)な事柄か」を明らかにする歩みであったと言って過言ではない。安息日に麦の穂を摘み食べたことをみたファリサイ派の人々は、「安息日にしてはならないこと(穂を摘む=仕事をする)を行った」と非難したが、イエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」とはっきりとおっしゃった(マルコ2:23~28,他)。キリスト教最大の伝道者パウロも、福音を多くの人が受け入れ救われるために、ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持っている人には持っている人のように、もっていない人にはもっていない人のようにふるまったと記している(1コリント9:19~23)。

牧師としての働きの大半は、「アディアホラ」な事を見分ける務めだと思ってやってきた。そして今、引っ越しを前にして、これからの引退生活に本当に必要な物は何かと考えていると、半分以上は「アディアホラ」な物と判明。今は断捨離に励みつつ、引退前の日々を過ごしている。




全ての一人一人に与えられている心の目

祈り)
天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
「大きくなったらパパのお嫁さんになる」って、幼い頃に言ったことがあります。
本人は大まじめ。でも周りの大人たちはきっと心で笑ってたのでしょうね。
イエス様は幼子のようになりなさいと言われました。
何も知らないでいなさいという意味でしょうか。
そうではなく「幼子のように、疑いなく私を信じなさい。私もあなたを信じていますよ。」
とイエス様は私たち一人一人に言われます。
わからない時、悩む時、私が必ず自分なりに乗り越えることを、イエス様あなたは信じて下さいます。
そのようなあなたと共に歩んでいることを、信じることができますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して今、
みことばから聴くお一人お一人へ、そしてお一人お一人の心にあるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを、主イエスキリストのみ名によってみ前にお捧げ致します。

アーメン

【参照聖書箇所:マルコによる福音書 13章32〜37節】

あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。(37節)

「そうかぁ、眠ってはいけないのか。神様も随分、難しいこと言うなぁ。守れないよ。」と思われる方も少なくないかもしれません。昔、私はすごく残酷な刑罰の一つとして囚人を眠らせない刑があったと聞きました。その刑罰の内容はこのようなものでした。人間の目はある一定の水分を与えられると開いてしまうという習性があり、その刑は目を閉じて寝ようとする囚人の目に、水が一滴落とされるという刑でした。眠いし、眠りたいのに眠れない、むごい刑の一つであることを教えられたことを思い起こしました。このようにむごいし、難しいことをイエス様は私たちに要求されているのでしょうか。

いいえ違います。ここで言われている「目を覚ましていなさい。」とは、肉体的な目のことではなくて、あなたの心にある目のことです。「え…私にあるの?」ちゃーんとあります。あなたに心があるように、心の目もあります。たとえ何かの理由で肉体的な目がないとしても、心の目は全ての一人一人に与えられています。その与えられているあなたの心の目を神様へと向けるだけです。

『その日、その時は、誰も知らない…父だけがご存知である。』(マルコ13:32)
神様は全ての日、全ての時をご存知です。あなたの心の目、すなわち心のチャンネルを神様に合わせていれば、何も恐れる必要はないのではないでしょうか。イエス様は言われます。「あなたの心の目を神様に向けていなさい。いつも神様はあなたに心を向けて下さっておられます。」