なんで

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祈り)
天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
まだまだ、暑かったり寒かったりする日が続いておりますが、所々に季節ごとの足音を感じます。
私たち一人ひとりがそれを見て思い起こすことは一人ひとり違いますが、
神様、あなたから与えられている恵みは、一人ひとりの全ての人に同じものが与えられております。
全ての一人ひとりが、今、一人ひとりに与えられていることに感謝できる私にして下さい。

これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

 

【参照聖書箇所:マルコによる福音書 11章15〜19節】

そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」(17節)

皆さんのイエス様のイメージっていったいどんなでしょう。お一人お一人がお持ちになられているイメージの細かい所は違っていても、だいたい同じで、穏やかでやさしい方というイメージが大半ではないでしょうか。

ところが今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所においては、ほとんどの方のイメージとは違って、神殿の中で商売などをやってる人々を叱責します。「怒る時はイエス様だって怒るんだよ」ってことでしょうか。そんな生温いものではありません。イエス様が感情に任せて怒られたわけではなく、何が一番大切なのかを分かってくれない悲しさも、祈りも、あったのだと思います。そして何よりも、そこにいた人たちに分かりやすく教えられたのだと思います。「祈りの家を強盗の巣にしている」ことに気づきなさい、と。

私たちは気づかずに間違ったことをしてしまったり、人を傷つけたりしてしまいます。「気づかなかったからしょうがないじゃない」と開き直ることもできますが、神様の前で気づいた事に向き合うこともできます。「ごめんなさい」と言うのか「もうしません」と言うのか。でも、私たちが考えの及ばない範囲のことまでは自分で責任が取れません。それでもいいのではないでしょうか。自分にできないこともあると思う時は「神様お願い頼みます。」と、頼む相手を間違えないことを私たちは選択できるからです。

神様に助けを求める権利は全ての一人ひとりが持っています。その時代の権力や価値観が、神様の前に進む一人ひとりを妨げてはいけません。イエス様の行為はいつも神様の愛に満ちています。今、ご一緒にお読みし、聴いた聖書の箇所も、決して感情的で怖いイエス様ではなく、愛に満ちたイエス様のお姿なのです。

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