与えられているかけがえのない命
祈り)
天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
明日は朝なんて来なければいいのに、と思うような日もあったり、早く明日が来ないかな、とわくわくしながら眠りにつく日もある私たちですが、
「今日はこの人は悪い事をしたから見せしめに目覚めさせないぞ」などと神様は言わずに、一人一人にふさわしいように目覚めを与えて下さいます。
イエス様が祈られたように、自分の思いや望みではなく、神様が一人一人に一番良いと思われるように全てが与えられます。
このように祈る私たちでありますように。
これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
【参照聖書箇所 ヨハネによる福音書19章25〜27節】
「見なさい。あなたの母です。」(27節)
今、お読みし、みことばに聴いた聖書の箇所は、教会の暦の上では「受苦日」に読まれる聖書の箇所の一つで、十字架上のイエス様が息をひきとられる日としてその日を覚えます。一人の人間として生きられた主イエスの「死」を私たちはみことばによって心に刻みます。十字架の上で息をひきとられる前の主イエスと、その十字架に架かっているイエス様をみつめる人たちの場面が語られています。
「何のために自分は生まれたのか」と私たち人間は問いますが、主イエスは「何のために死んだのか」とも私たちは問います。その答えは誰もが同じものには答えられません。一人一人に与えられる答えだから一つではないのです。しかし、神様は答えられます。「命を与えたのは、あなたが必要だから」と。
イエス様の誕生から死までは神様と共にあり、イエス様ご自身も祈る人でした。これは今を生きる私たちと何ら変わりはありません。ただ違うのはイエス様は神様であることです。だから、私たち人間に見える形で復活されました。神様が一人一人を必要とされるから、命を私たちに与えられておられることを示される意味もあります。たとえ見えないかたちでも、命はあるということを私たちに教えて下さったのです。
私たちはあたかも、見える存在の方の命だけが「生きている」ことであると思い「この世の死」は終わりであるかのように思います。そして、「この世の死」を恐れたり悲しんだりします。しかし、「永遠の命」とは見えるかたちで存在することだけが命のかたちではないと私たちに語ってくれているのではないでしょうか。
神様が一人一人を必要とされるから、命を私たちに与えられておられるからこそ、見えるかたちでも見えないかたちであっても、全ての一人一人は神様にとってかけがえのない存在なのです。