かみさまとわたし

祈り)天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めを与えて下さりありがとうございます。
私たち一人ひとりには名前があります。「あの人」「この人」と言っていた人が親しい関係になると「〇〇さん」になったり。
でも、神様にとってすべての人にははじめから名前があり、神様にとって私たちは親しい関係にあります。
だから神様、あなたは一人ひとりを魂の名前で呼んで下さいます。
名前を呼ばれる時、一つの無機質な物体から温もりのあるかけがえのない命にされます。
私たち一人ひとり、かけがえのない存在として今、命を与えられ生かされていることを思い起こせますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと、そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。神様あなたにすべてをお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン

【参照聖書箇所:詩篇6篇】
主はわたしの嘆きを聞き
主はわたしの祈りを受けてくださる。(10節)

『主よいつまでなのでしょう。』(詩編6:4)と詩人は祈ります。祈りというより心の叫びとでも言うのでしょうか。苦しみや悲しみの中にいるとき、私たちは「これはいつまで続くのだろう」と不安になる時が多いような気がします。何が解決になるのか、どうすればここから解放されるのか、そのようにもどかしく感じる時も多いと思います。

「クリスチャンのくせに」そのような声が聴こえてくるような気がします。誰から?他の人からも、そして自分自身からも。もしかしたら自分自身を責める声、それが一番厳しいのかもしれません。「クリスチャンならこのくらいのこと悲しくない、耐えろ」とか「クリスチャンなら苦しむな,いつも笑っていろ」と自分に言い聞かせてしまいそうです。でも、クリスチャンでも悲しむし、クリスチャンでも笑えないほど苦しいときもあります。クリスチャンという言葉ではなくても、大人なんだからとか、子どもなんだからとか。

しかし、詩編6篇10節で詩人は祈ってます。『主はわたしの祈りを受け入れてくださる。』主というのは神様のことです。神様はあなたの祈りを受け入れて下さいます。神様に祈る人がクリスチャンであっても、クリスチャンではない人であっても、言葉をうまく表現できない人であっても、大人や子どもと呼ばれている人であっても、その人、一人ひとりの心が神様へと向けられているのなら、神様はあなたの祈りを受け入れて下さいます。神様の心はいつもあなたに向けられているので、あなたの心が神様に向けられる時はいつでも大丈夫です。たとえ、あなたの思いが言葉や声にならないような心のうめきであったとしても、神様には聴こえます。なぜなら、祈りを受け入れて下さる神様は、あなたの一番近くであなたに心を寄せて、共におられるからです。

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