かみさまのいうとおり

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祈り)天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
なぜ、私はここにいるんだろう、なぜ私は今、生きているんだろう。
なぜ、と思うと、たくさんの「なぜ」の中に自分が生きていることを思います。
しかし、その一つひとつのすべてのものが私だから与えられたもの、神様が一人ひとりを大切にされておられるからこそ与えられているのだと思う時、
「なぜ」は「かけがえのない私にだから」と変えられ、
やさしく自分を包んでいる神様からの恵みの中に生かされていることを感じることができます。
一人ひとりを包んで下さる神様からの恵みを感じることができる今を、感謝できるようになります。

これから語られますみことば、この語る者を通してここにおられるお一人お一人へと、
そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン

【参照聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章13〜25節】
神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。(13節)

「信仰」ってなんでしょうか?文字通りに言うと「信じて思い仰ぐこと。」わかったようなわからないような。そうです、他の人が「標準的にはね」と言えない、あなた自身の心のあり方を言います。
昔、こんな言葉を口にしながら物を選んだことはありませんか。「どちらにしようかな?神様の言う通り。。。。」と言葉は続いて行きます。「あなたクリスチャン?」「聖書読んでるの?」と聞かれるわけではありません。神様と言うならちゃんとした宗教に入っていなければいけないわけでもなさそうです。それでも「神様」は私に一番良い物を選んで下さる、というような思いが「神様の言う通り」という言葉には込められているのではないでしょうか。

ご一緒にお読みいたしました聖書の箇所において、アブラハムは律法ではなくて信仰によって神様に義とされたと語られています。「信仰」というものは新たに作られたり与えられる「律法」とは違い、もうすでにあり、一人一人を包んで下さっている神様からの愛を私が受け入れること。それなのです。
「『神様の言う通り』ってなんとなく言ってたわ。」と言われる方も多いと思います。「なんとなく」神様を受け入れる、そんな毎日でありますように。

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