心が枯れているから・・・

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2年前の夏、休暇をいただいて信州のI市に観光のために旅行に出かけた。仕事でI市にいくことはあっても、なかなか観光する機会がなかったからだ。当時は第2波のコロナ禍中であったので、出来るだけ人と接触しないようにと心がけつつも、せめてI教会くらいは訪ねることはできるのではと少々の期待をもっての旅行であった。しかし、その頃のI市は感染の広がりがない分、警戒感が強く、I教会の牧師の返事は「幼稚園もあるので首都圏の方とはお会いできない」という返事であった。予想していたことではあったし、かえって困惑させてしまったと申し訳ない気持ちで旅行から帰宅した。直接会うことができなかったあの時から1年半、オンラインでは会えていても、それが終わった瞬間、巣ごもりの現実に引き戻される。沢山のオンライン会議を行う度にそのことの繰り返し。仕事をやり終えたという充実感もないし、オンラインの相手は、泡のようにその存在が消えてしまう。その結果、徐々に画面に集中し続けた疲れを感じるようになっていった気がする。

そのI教会幼稚園から、6月に講演の依頼を受けた。専門的なことは素人だが、社会福祉法人理事長の経験と22年間の保育園チャプレン(もしかしたら4人の子育て経験も?)を見込まれてのことかと勝手に考えている。依頼に十分お応えできるかは不安だが、それ以上にI教会の関係者から「来て講演してください」と言われたことが嬉しかった。人と会えるという思いを抱けることがこんなにも嬉しいとは・・・。コロナ禍で人との交流が断たれ、外出には様々な規制を自分に課し、宅配の人が来ても無意識にマスクをして応じる。離れた家族や友人とは会えず、せっかく会ってもマスク越し、握手もハグもなく、寄り添って肩をさすってあげることもできるだけ避けようとする日々。それを繰り返しているうちに、わたし(たち)の心は枯れてしまっていたのではないか。でも枯れ切ったのではない。水を注げば生き返る。私に向けてくださった「来て」がそうであったように、「会って、触れて」の世界を取り戻しさえすれば、枯れた心も直ぐに潤されることだろう。必ず来るその日まで、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13〜14)イエスがくださったこの言葉を思い起こすことで、枯れた心に先ずは自分で水を注ぎ続けなければ!

私事、「6月、I市を訪れる日が来る」と今はその希望を水に変えて心に注ごう。