感謝する|神への感謝〜信仰の芽生え〜
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「秋は何処にいったの?」と思ってしまう程の急な冬の訪れ。庭の銀杏も大慌てで色付いたが、紅葉は間に合わなかったようで、今も青々と。勿論、草木がどう感じているかは分からないから、あくまで私見に過ぎないと思っていた所、次のような記事が目に入った。「木々の葉が、日々、移ろいゆく季節である。郊外の小さな山に登り、紅葉を望めば、同じ木の同じ枝にあっても、一枚一枚の葉の色が微妙に異なることに気づく。自然というものはどこまでも画一を嫌い、どこまでも多様ということか。」(朝日新聞「天声人語」11月18日より)自然は不揃いなのに、画一的にとらえてしまうのが私たちだから、一斉に咲き色付いていることを好むが余り、食物にも同様に曲がったり少し傷んだ物には目もくれず、ひたすら見た目に良い物を求めてしまう。
保育園で収穫感謝の礼拝が行われた。子どもたちの前には、持ち寄られた様々な野菜や果物が並ぶ。勿論、家庭で栽培されたものではなく、買い求めて来た物が大半を占める。きれいで沢山の野菜や果物を見ながら、「豊かな実り」を実感するのだが、感謝するのはその「豊かさ」ではなく成長させてくださる神様に対してである。こども讃美歌にそのことを告げてくれる歌がある。「わたしたちの食べるもの/田んぼのお米もお野菜も/光をおくり/雨をふらせ/育ててくれたのは神さま/感謝しましょう/神さまありがとう」(日本キリスト教団出版局:こどもさんびか改訂版「わたしたちのたべるもの」より)新しい歌なので、関わっている二か所の保育園ではまだ用いられていないが、見た目の豊かさに心を奪われることなく、神様に感謝する心を養ってくれるのではと思う。
感謝は収穫の時だけではなく、全ての事に於いてなされる信仰者の基本であり、換言すれば、感謝することから信仰が芽生えると言っても過言ではない。突然襲い掛かる望まぬことが多くあっても、神は共にいて支え、立ち向かう力を与えてくださり、私が望む未来ではなく、神が善しとされ私に相応しい未来を与えてくださることを確信して生きること、与えられた信仰はそのような生き方に私たちを誘ってくれる。「どんなことにも感謝しなさい。」(1テサロニケ5:18)これが、神様が私たちに求めておられることなのだから。
「カサッと微(かす)かな音をたて、赤いカエデの葉が、やさしげに頭にあたる。その一枚が、いつどこに落ちるかさえ、私たちは誰も知らない。〈風に聞けいづれか先にちる木の葉〉。夏目漱石の秀句である。もうすぐに、冬が来る。」(前述:天声人語より)神様が良き明日を備えてくださることを信じて。