記憶されていることを知る

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先月末のこの欄に、九州の直方教会に出かけた際の出来事を記した。その直方教会のM牧師よりお礼のお手紙をいただき、「先生が直方教会のメンバーについて、たくさんのことを覚えていてくださったことに、教会の皆さんは大変喜んでおられました」という一文があった。あの時、私は自分のことを覚えてくださっていたことが嬉しかったけれども、直方の方々の気持ちまでは思いを馳せることは出来なかった。だから、直方の方々も同じだったと知らせて頂いたことで、「誰かに記憶されていることの喜び」を私たちはもっと思い起こすべきではないかと、お手紙を読みつつ思い直している。だが、思い出さなければなるまい、神様のことについて様々な神学用語を用いて説明されるよりも、最も分かり易くしかも最初に心を動かされることは、「あなたのことを決して見捨てない、忘れない」ということだということを。それは直方の方々が、私が記憶していたことで喜びを感じてくださったように、何よりも神様が覚えてくださっていることに気付き続けることが、私たちにとって前を向く力になるのだということにほかならない。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19:5)木の上からイエスが来られるのを見ていたザアカイを見上げて言われた言葉である。徴税人(支配していたローマ皇帝が定めた税金を徴収する仕事)であったが故に、ユダヤの同胞からは罪人とされ親しく声を掛けられることもなかった彼に、イエスは声を掛けてくださった、しかも彼の名前を告げて!「あなたの事を知っている、あなたのことをちゃんと覚えているよ」という意味でもある。自分のことが記憶されているというその一事に、彼はどんなに力を得たことだろう。ザアカイの出来事は、私たちにも起こっていることなのだと、聖書は私たちに今も語り掛けている。

ところで、最も私のことを記憶してくれているのは両親である。残念なことに他界してしまっているので、「私の記憶」を聞くことはもう叶わない。生きていたら、今なら会って「私はどんな赤ん坊だった?どんな子どもだった?」と聞きたいところである。記憶されていることの喜びが、今、そしてこれからも力になると思えるからである。

ここ数日、次男家族が休暇で我が家に滞在している。コロナ禍第一波に生まれた孫とは初対面。沢山のことを記憶してあげたいと思っている、いつか成人した彼に「初めて会った時はこうだったよ」と話してあげることで、記憶されていることの喜びを感じてもらいたいからである。「手を繋いで、いっぱい抱っこしてあげたよ」と成人した彼に伝えたいのだが、帰るまでにその夢は叶うのだろうか・・・。

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