時代の記憶|振り返ることは決して無駄ではない
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運転免許証が交付されない、処方箋による調剤登録と会計処理が出来ない等、今年のうるう日に聞いたニュースだ。いずれも新しいシステムを前回のうるう日以降に導入したために対応できなかったのが原因らしい。ということは、以前にもそのようなことがあったのだろうけど、全く記憶に残っていないし、多分、このニュースの事も4年後に思い出すことはないだろう。私の人生において、うるう日の経験は今年を入れて18回あるが、記憶にはっきりと刻まれているのは、前回2020年のその日である。一番近い日ということもあるだろうが、特別な一日であったからだ。
4年前、その日は28年に一回の確率の「第五土曜日」、コンサーを予定していた。しかしコロナ感染症がジワジワと身近な問題になり始めた頃でもあった。コンサートを終えた翌日のエッセイの一部を再掲する。「開催を決断するまで、何度心が揺れ動いたことだろう。新型コロナウィルスのニュースが連日報道されるようになった1月は、『対岸の火事』のような思いがあったことは否めない。2月になり徐々に国内感染が報道され始めて多少の不安を覚えたが、それでも、『こんな時だからこそ開催して明るい気持ちをいただきたい』と気持ちを切り替えていた。だが、2月半ばに本教会から注意の通達が届いた頃から、『中止』と『開催』で気持ちが揺れ始めた。それでも開催に向けて、注意喚起の掲示をしつつ消毒液などを手に入れようとしたが叶わないまま残り一週間となった。徐々に『今なら未だ中止することが出来る』という思いが強くなった。開催することで『感染源』とされることを一番恐れたからだ。開催できるとしたらどのようなことを考えなければならないか。まずは演奏者が快く来てくださろうとしているのかを確認すること、濃厚接触を避け注意喚起を行うこと、消毒を徹底すること等を出来得る限り行おうと考え、『開催』の決断を下したのは、コンサート三日前の夕方であった。開催の前には『次々とキャンセルが続く中、演奏できることの幸せを本当に痛感しています。』と演奏者からメールをもらい、決断の後押しをいただいて臨んだコンサートであった。」(2020.3.1.) 三人の演奏者といつもの三分の一程の観客。あの日の事を私は「特別なうるう日」として刻んでいるし、恐らく地上に命ある限り思い起すことだろう、コロナ感染症初期という「時代の記憶」として。
時にはイエスに出会った人々の興奮や聞いた人の驚きを想像してみるのも良いかもしれない。人々の心に存在したはずの興奮・驚き・感動・感激等々、それこそが「イエスの時代の記憶」として、私たちの手元に聖書として届けられているのだから。